マナーを守って楽しく政治をしましょう?

digital.asahi.com

 朝日新聞デジタルに掲載された朝日川柳に対して、たかまつなな氏が次のようなコメントを寄せている。

【提案】

【政治的な評価と暗殺(ご冥福をお祈りする)をわけて考えませんか】 安倍元総理の功罪はどちらもとても大きいと思います。私は森友・加計・桜、官僚の忖度体質などたくさんの「罪」があったと思います。ですが、安倍さんは暗殺されてしまった。暗殺されていい人などこの世にいません。暗殺された人に対して、ご冥福をお祈りするということがそんなに難しいことなのかと少しこの川柳を拝読して、悲しくなりました。無念の死に対して、あの世までというのは、さまざまな考えがあると思いますが、私は違和感を覚えました。こちらの川柳は、twitter上でも、さまざまな意見があり、投稿された方にも誹謗中傷などが及んでいないかと心配で、このようなコメントをすることもさらに追い討ちをかけてしまうのではないかと悩んだのですが、コメントプラスをしているメンバーとして、いっておかなくてはいけないと思いあえて投稿します。暗殺されたことを受け、ご冥福をお祈りした上で、政治的な功罪を議論するということをしませんか。投稿者の方というよりも、これを選び掲載された朝日新聞側に問題提起をと思い投稿します。

 

 これに対して、藤澤統一郎氏がブログで反論を寄せている。

article9.jp

 私も、藤澤氏と同じように、たかまつ氏のコメントに「危険」なものを感じる。ただ、たかまつ氏の「危険性」は、藤澤氏が考えいているものと、少し違うのではないか、とも感じた。

 藤澤氏はこう言う。

あなた〔=たかまつ氏〕の違和感は、「政治的な評価」と「弔意」を分けて考えないところからのものではないでしょうか。あなたが、あなたご自身の思想や感性に基づいて「弔意」の表明を大事なものと考え、元首相の死を「暗殺されてお気の毒」「ご冥福をお祈りしたい」とすることの自由は保障されています。しかし、だからと言って、「弔意よりは、政治的な評価」を大切に思う立場の人たちに、あなたのご意見を強制することはできません。

 しかし、たかまつ氏の意見は、自分で書いているように、「政治的な評価」と「弔意(ご冥福をお祈りする)」を「分けませんか?」という提案である。また、たかまつ氏は「政治的な評価より弔意が大切」とは言わないだろう。おそらく「どちらも大切だ」と言うに違いない。

 もちろん、藤澤氏は、たかまつ氏のコメントは結局「政治家の死を利用した言論弾圧」になっているのであって、「政治的な評価と弔意を分けませんか?」と言っているたかまつ氏自身が「分けていない」のだ、と言いたいのだろう。

 たしかにそう言えなくもないのだが、たかまつ氏のようなスタンスの問題点は、もっと単純、というか、もっとやっかいなものではないかとも思う。

 藤澤氏は驚くかもしれないが、おそらくたかまつ氏は、件のコメントを、そもそも「政治的な」コメントとして書いているという自覚がないのではないだろうか。彼女のコメントは、おそらく次のような「苦言」に近いのだと思う。

野球観戦を楽しむのは自由ですが、ゴミを持ち帰る、などのマナーを守って楽しみませんか?私も野球観戦は大好きです。ですが、試合後の球場の様子を見て、ゴミをもちかえるということがそんなに難しいことなのかと、少し悲しくなりました。

 あるいは、こんな感じ。

野球観戦を楽しむのは自由ですが、会社にタテジマのハッピを着てきたり、勤務時間内にスポナビで試合経過を頻繁にチェックするのは違和感を感じます。私も野球は大好きですが、野球と仕事は分けませんか?

 さて。たしかに、「野球」と「仕事」は(プロ野球選手以外にとっては)もともと違うものだし、分けるべきという意見も一理ある。しかし、「政治」と「弔意」は、はたして分けられるものであろうか?あるいは、「政治」と「川柳」は?

 おそらく、たかまつ氏にとって、「政治」とはとてもせまいものと捉えられているのだろう。「政治家安倍晋三の功罪を議論する」ことは、「政治的行為」であり、自分も大いにやっている。だが、「人間安倍晋三の死に際してご冥福をお祈りする」というのは、個人的な「非政治的行為」である、それは当然のことだ、とたかまつ氏は思っているだろう。しかし、「政治」というのは、「個人的なもの」と切り離せないのであり、むしろ、「個人的なもの」に非政治的なものの顔をして入り込んでくる「政治」こそ、最も警戒すべきものである。そうした感覚は、たかまつ氏には希薄なのだろう。だから、たかまつ氏は、藤澤氏の言う「政治家の死は、利用されやすく強制されやすいもの」という言葉はピンと来ないだろう。

 したがって、たかまつ氏の問題点は、藤澤氏の言うように「政治と弔意を分けて考えない」ところにあるのではなく、逆に、「政治と弔意は分けて考えられない、ということを考えていない」ところにあるのではないか、と思う。

 たかまつ氏の言いたいことは、想像するに、こんなことなのではないだろうか。「自分は弔意を強制などしていません。人が死んだときに弔意を示すのは人として当然だと言っているだけです。人間安倍氏の死を個人的に悼んだからといって政治家安倍氏を肯定的に評価することにはならないですよね?私が言いたいのは、人の死を悼むどころか揶揄する(とたかまつ氏には見える)川柳を乗せるなんて、人としておかしいことをしてしまったら、せっかく政治的にいいことを言っていても、人して信用されませんよ、ということです。私は老婆心ながら忠告しているのです。」

 つまり、「せっかく熱い応援をしても、応援以外のところでマナーが悪いと、阪神ファンは人として信用されなくなりますよ。私は忠告しているんです。」みたいな感じ。「マナーを守って楽しく政治をしましょう」と。

 

 ところで、昔、排外主義者のデモに一人で抗議を表明したつねのゆうじろうさんが、排外主義者たちに集団で暴行を受けたことがあった。

sarutora.hatenablog.com

 この事件に対して、ネット上で、「右組も左組もマナーを守りましょう」とコメントをした「妖怪どっちもどっち*1」がいた。しかし、排外主義者のデモも、それに対する抗議も、抗議に対する暴力も、すべてきわめて「政治的」なものだ。ところが、こうした人たちにとっては、それが、結局は「マナー」の問題に矮小化されてしまうのだ。

*1:これについては

sarutora.hatenablog.com