ホームレスと彼/女

 野宿者強制排除に関わるエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/zarudora/20070205/1170693834で、私は、ワイドショーでの福澤朗山田花子の次のようなやりとりを紹介した。

福澤朗)これはただならぬ状況……。花子ちゃんは知ってた?こういう状況。大阪では。
山田花子)はい知ってました。もう街みたいに、なってるんです…あの一帯が(眉をひそめながら)
福澤朗)あーそうなんだ、そうなの。ちょっと怖い?やっぱり、はたから見ると。
山田花子)怖いです!近づけないですね…。
福澤朗)そうかあ。ま女性はそうかもしれないねえ。えー。

 ここで、福澤はしきりと「女性としては」ということを強調している。もちろん、福澤のこの誘導的な質問は、大阪市による排除という、「野宿者への暴力」の問題を、「野宿者による」「女性への暴力」の問題にずらそうとする狡猾なものであると言える。
 しかしだからといって「公園における女性への暴力」ということ自体が重要な問題ではないということではもちろんない。「女性の方が高いレイプおよび性被害被害率があって、ポルノのほとんどが男性向けの女性が出ているものであるような社会」においては、男女共用トイレで女性がとなりの男の気配を「キモイ」と思う事自体を「男性一般への偏見」という問題で片づけるわけにはいかない(http://d.hatena.ne.jp/kleinbottle526/20070306/1173171852)のと同じように、「公園にいる男性」の存在を「女性としては」「怖い」と思ってしまうこと自体は、「野宿者一般への偏見」という問題に還元することはできない。
 だが、その問題はさしあたりおいて、ここで我々は、先に書いた「野宿者による女性への暴力」という表現に立ち返ってみよう。我々はこの表現を暗黙のうちに「男性野宿者による女性非野宿者への」暴力、として読みとってしまう。ここでは「野宿者は男性である」ことと「女性は非野宿者である」ことが前提にされているのであり、つまり「野宿者女性」の存在が抜け落ちている。

女であること

不埒な希望
不埒な希望
posted with 簡単リンクくん at 2007. 3.26
狩谷 あゆみ編
松籟社 (2006.11)
通常24時間以内に発送します。
 狩谷あゆみ編『不埒な希望――ホームレス/寄せ場をめぐる社会学』に収録されている文貞實氏の「女性野宿者とストリート・アイデンティティ――彼女の「無力さ」は抵抗である」は、その「女性野宿者」について論じている。そこで問題となっているのは、「女性であること」と「野宿者であること」との単純ではない関係である。文氏は、自らが行った女性野宿者への「ストリート・インタビュー」を紹介しながら、その中で浮かび上がってくる彼女たちの「無力さ」を問題にする。氏は、それを「何もしないという行為」と呼ぶ。

 ここで、何もしないという行為は、具体的には、自立支援事業について無関心であること、公園からの排除に対して諦めること、パートナーの暴力に対して無力であること、支援者の集まりやボランティアの声かけに余計な話をしないこと、テントのなかでじっとしていることに現れる。(同書、p.201)

 氏は、女性野宿者たちのそうした「何もしないという行為」のなかに「抵抗」の契機を読みとる可能性を示す。*1
 文氏が問題にするのは、彼女たちの「抵抗」が、名付けられることへの抵抗でもある、ということである。女性野宿者たちは「アイデンティティをめぐる攻防」を繰り広げている、と氏はとらえる。女性野宿者たちの「何もしないという実践」は「ストリート・アイデンティティをめぐる実践」である。

 名付けられる側、アイデンティティを問われる側に位置づけられる側は、ぎりぎりの生存戦略としてアイデンティティをめぐる攻防を繰り広げている。(同書p.204.)

 そして文氏は、「ストリート・アイデンティティの実践」と、「女であること」、「主婦であること」という「ジェンダーアイデンティティ」の、一筋縄ではいかない関係を描く。

ストリートでの彼女たちは、ことばを奪われる一方で、執拗に反復される質問と要請に対して応じることを強いられている。そのような要請に対して、彼女たちが「女である」「主婦である」ことを語るとき、この場所で「女である」ことの意味が発見され、「主婦である」ことの意味が再認される。このことは、「女である」ことが指し示す社会的なポジショニングをめぐっての、ぎりぎりの、生きるための戦略としてのジェンダーアイデンティティの生成を意味する。
(同書204-5)

 「女である」ことについて。

 オキヨさんは、野宿しているものが「赤ちょうちん(商売/売春)」するのは悪いことではないという。「みんなやっているんだから〔生きていくために〕」。「商売/売春」は生きていくための非常手段だという。しかしその一方で、オキヨさんは家があるひとは妻であり母である役割をちゃんとこなさなければならないという。(……)このことは、彼女自身が家のある「女」に要請されている義務・規範を放棄している場所で生きるものが女性野宿者であり、また女性野宿者は、「無力である」からこそ非常手段を行使することが許される存在であるというストリート・アイデンティティを表明しているといえよう。しかし、その同じ場所で、オキヨさんの行為の実践(売春という仕事)、言説の実践(「野宿者の非常手段である」)が別の局面を生み出している。それはつねに女性野宿者自身がジェンダーアイデンティティを繰り返し補強している場面である(……)。(同書p.218 強調引用者)

 「主婦である」ことについて。

U公園のブルーシート層の”夫婦”では、男性が日雇い労働で女性を養っているというタイプが比較的多かった。ストリート・インタビューのなかで女性たちは「専業主婦」として位置付けられていることに十分自覚的である。そして、男性野宿者のほうは、彼女に食事の準備も何もさせず、女性をそばにおくこと、”妻”を所有すること自体に価値を見出している。女性野宿者のほうはといえば、無力な”主婦”になることで、この場所を確保しているジェンダーアイデンティティを担保に「女である」こと「主婦である」ことを身体化・道具化している。(同書p.225 強調引用者)

この場所で、彼女は”主婦”という役割/位置を押しつけられたのではない。”主婦”という役割を積極的に引き受けているのだ。この場所で”主婦”になることは、労働市場における有用な労働者から最も遠い場所に位置することを意味し、それは、彼女の「空白」が示す困難な状況からの解放を意味するからだ。そして、この場所は、彼女にとって、「少しばかり休んでもいい」「何もしなくてもいい」という状況を手に入れる抵抗の場所となる。(同書p.227.)

 上の引用部分にある「空白」とは、ストリート・インタビューの中で示される、女性野宿者たちのライフストーリーにおける「空白」のことであるが、彼女たちのアイデンティティをめぐる攻防とは、その「空白」を埋めようとするものたちとの攻防でもある。そして空白を埋めようとするものたちとは、彼女たちをサポートする側の人々でもある。

 ストリート・インタビューの場面では、ケイコさんの家出の理由やオキヨさんの上京の理由は決して語られない。それらは彼女の語る人生の「空白」として残される。彼女の人生の記憶は「空白」の連続である。しかし、彼女のストーリーの「空白」は、社会的・経済的な文脈のなかで読み替えられるとき、「家族の不幸」、「病気」、「結婚の失敗」、その後の「水商売の経歴」によって容易に埋め込まれてしまう。そして、彼女たちをサポートしようとする側(支援者団体、ボランティア、研究者、行政)は、彼女たちの人生の「空白」をカテゴリー化し、そのカテゴリーにそって社会的に登録し管理しようとする。彼女たちの「人生」には、「売春のおそれ」「夫の暴力」「住み込み先からの解雇」などの事柄が列挙され、彼女の人生の記憶は、売春防止法やDV防止法の拡大解釈のもとで、生活保護、緊急一時保護の対象として、さらに自立支援事業の対象として書き換えられていく。(同書p.217.)

男であること

 福澤朗は、「公園における、(男性)野宿者による(女性)非野宿者に対する暴力」の存在を暗示する印象操作を行ったが、実際には、「非野宿者による野宿者に対する暴力」の方がはるかに多い。野宿者襲撃は、「各地の野宿者支援団体によって、その「事実」が報告されてはいるが、被害に遭った野宿者が殺されない限りは、マスメディアによって報道されることはない。(同書p282.)」
 『不埒な希望』収録の狩谷あゆみ氏によるコラム「「男」が「男」を殺すとき……HomophobiaとHomeless-phobia」は、その野宿者襲撃(非野宿者による野宿者への暴力)が、「男性による男性に対する暴力」であることに注目する。

マスメディアを通じて「事件」として報道された例を見る限り、野宿者襲撃の加害者は「男性」だし、被害者も「男性」である。(同書p.307.)*2

 被害者が男性に特化しているのは、日本の野宿者の特徴が「単身で高齢の男性」が多いからである*3。一方、加害者が男性に特化していることは、野宿者襲撃が「凶悪化する少年犯罪」の枠組みで語られてきたこと*4からもわかる。そもそも「少女犯罪」というカテゴリーが存在しないわけだが、このことは、「野宿者襲撃に限らず、未成年者による犯罪の多くは(未成年者に限らずともいえる)、男性によって行われてきたという「事実」そのものが自明のものとされてきたことを物語っている(同書p.308.)」。
 狩谷氏は、野宿者襲撃がなぜ「男性による男性に対する暴力」であるのかを考察するため、同性愛者襲撃、すなわち「公園における、非同性愛者による同性愛者に対する暴力」との対比を行っている。*5
 例えば、2002年2月に、東京都江東区の新木場公園近くにある都立夢の島緑道公園における「同性愛者」をねらった強盗殺人事件があった(新木場事件)。加害者は未成年者を中心とした7人の男性であり、この事件以前にも「ホモ狩り」と称して、同じ場所十数件の暴行・強盗事件を起こしたことを自供している。逮捕された7名のうち、少年6名は家庭裁判所に送致され、成年だった1人だけが刑事裁判を受けた。公判では、検察側・弁護側とも、犯人グループが「『ホモ狩り』に行こうぜ」と誘い合わせて夢の島一帯にくり出していたと説明、少年たちが公園に集まるゲイを狙って襲撃を繰り返していたことが明らかになったが、判決(懲役12年)では、犯人グループの動機は「こづかい銭かせぎ」とされており、犯人グループが「ホモは警察に届けない」から「ホモ狩り」に行こうという意志をもっていたという事実にはふれられていない。
 狩谷氏は、同性愛者襲撃にかんする河口和也氏の次のような文章を引用する。

「同性愛者になってはいけない」、あるいは「同性愛者になるとあのような悲惨な暴力を受けることになる」というある意味での恐怖を思い起こさせ、それにより異性愛体制を強化するという意味では、ひとつの制度と言ってもよいくらいではないだろうか。*6

 そして、狩谷氏はこのようにコラムを結んでいる。

河口が、同性愛嫌悪による暴力を「制度」と述べたように、「野宿者になってはいけない」「野宿者になるとあのような悲惨な暴力を受けることになる」という恐怖を呼び起こさせるために、野宿者襲撃は社会的に必要とされ、かつ容認されてきたと言える(ここでの容認とは、野宿者襲撃を目撃しても、多くの人が注意しないし、警察に伝えることもしないこと、警察に被害者が訴えても相手にされないことなどを指す)。
 このように、ホモフォビアというメカニズムに、野宿者襲撃を当てはめてみると、最も肯定されてしかるべき男性のホモソーシャルな絆を維持し、集団の行動を統制するために、野宿者が暴力の対象となってきたと解釈できる。男性同性愛者が「あるべき男性像」から逸脱した存在と見なされているように、野宿者も「あるべき男性像」から逸脱した存在として見なされているからこそ、繰り返し暴力の対象とされてきたのではないだろうか。冒頭で引用した新聞記事のように、野宿者襲撃は繰り返し、ほぼ定期的に起こっていると言える。マスメディアを通じて「事件」として発覚した野宿者襲撃や同性愛者襲撃は、二つの現象は「男らしさ」や「男性性」というものが、いかに暴力によって(多くの場合、集団による暴力によって)維持されているかを露わにしたのではないだろうか。(『不埒な希望』p.312.)

 つまり、同性愛者や野宿者は、「あるべき男性像」から逸脱しているから襲撃される、のではない。むしろ、「あるべき男性像」なるもの自体が、彼らの排除によって維持されるものでしかない、ということである。いいかえれば「我々は男である」ということは、「我々は『男ではない彼ら』ではない」ということを繰り返し確認することによってしか、確立されない、ということである。

しかし同時に、「迷惑な人」の存在は、逆に必要とされている面もある。「迷惑をかけてはいけません」という規範は、「『ああいう人』になってはいけません」という言い方によって補完される。その意味で、「迷惑をかけないこと」とは、「『ああいう人』にならないこと」でもある。つまりなんのことはない、「ああいう人」とは、「私たちではない人たち」であり、同時に「私たち」とは、「ああいう人ではない人」として析出される、というわけです。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060120/p1

*1:抵抗としての「何もしないという行為」、抵抗としての怠惰、についてかつて私はhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060410などで書いた。

*2:狩谷氏のこのコラムについてはhttp://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays10.htmの2007/1/22において、「事実認定の誤りがある」「「野宿者襲撃が加害者も被害者も『男性』である」とは誤解である。したがって、この前提で立てられた論考はほとんど意味をなさない」といった批判が生田武志氏によってなされている。

*3:「決して女性野宿者が暴力の対象にならないということではない」と狩谷氏は付け加えている。

*4:これは「事件」として表面化したものの多くが未成年者による犯行だったためである。

*5:狩谷氏が取り上げるのは被害者が男性同性愛者である事例であるが、そのことについて狩谷氏はこう書いている。「同性愛者襲撃の特徴として、公園や空き地などで自然発生的に形成された「ハッテン場」と呼ばれる同性愛者が知り合う場所で、「外部」から侵入してきた集団によって行われることが多い。「ハッテン場」は、男性同性愛者にはあるが女性同性愛者にはない。このことは、異性愛にしろ同性愛にしろ、女性が積極的に出会いを求めることが社会的にタブー視されてきたこと、また、女性同士が夜の公園に集まること自体非常に危険であることが関連している。そのため、女性同性愛者が暴力の対象にならないということではないし、同性愛か異性愛かということよりも、むしろ女性は女性であることを理由に(異性愛)男性からの暴力の対象になってきたと言えるだろう。(同書p.309.)」

*6:河口和也「不可視化する『同性愛嫌悪』――同性愛者(と思われる人)に対する暴力の問題をめぐって」『身体のエシックス/ポリティクス』p.132-3.(『不埒な希望』p.311.)