サルトルの演劇について(3)別役実とサルトル

 さて、『現代思想』追悼号には、鈴木忠志と共に早稲田小劇場を発足させた別役実も「サルトルの芝居」という文章を寄稿しているのですが、別役は、サルトル演劇に対して、ある意味で鈴木とまったく逆のことを書いているのが面白いです。別役は、サルトルの演劇が、極めて演劇的であり、良くできている、と言います。

 論理的な長台詞というものは、往々にして朗誦法だけに頼る「演説」になってしまい、それがそこに機能すべき生活空間から遊離してしまいがちなのであるが、サルトルの場合だけはそうではない。論理の厳正さを損なうことなく、それらは独特のリズムに従って現場に返され、その場の生活空間に奉仕させられているのである。この意味では、見事というほかはない。(『現代思想』1980.7. 142頁)

 しかし、別役は、サルトルの芝居はだからこそ「鼻につく」というのです。別役は、そもそも「サルトルの芝居は、どうも好きになれない」と言うのですが、その原因はサルトルの芝居の「上手さ」にあるのではないか、と言います。

 つまりこうした「上手さ」が、何となく「鼻につく」ということは、あるかもしれないのだ。「サルトルともあろう大哲学者が、こんな下世話な上手さを見せつけるなんて、嫌みだよ」というわけである。(同)

 なるほど。しかし別役は、更にこう言います。

 しかし、私がサルトルの芝居から受ける妙な違和感は、どうもそれだけのことではない。私にとっては、この「下世話な上手さ」が「嫌味」なのではなく、どうも「うさん臭い」のだ。どこか「違うんじゃないか」という気がしてならないのである。(同)

 別役は、そのサルトルの「うさん臭さ」について

 サルトルの場合、状況における不確かな「生活感覚」は限りなく排除しながら、その論理に、それを生活空間の中で具体化し、リアリティーを持たせるために、奇妙な「生活感覚」をまつわりつかせているのである。言ってみれば、その論理を正当化するための手だてとして、「生活感覚」が利用されているのである(同143頁)

 なるほど。面白いですね。それにしても、サルトルが好きになれないと言い、「サルトルの芝居に関わったこともないし、特に熱心に読んだわけでもない」と言う別役の方が、サルトルから影響を受けたことを公言し、サルトル演劇に対して好意的な書き方をしている鈴木忠志よりも、サルトルの芝居をはるかに細かく分析し、するどい視点を示しているように見えるところが、これまた、面白いですね。
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*1:というわけで、鈴木忠志による『トロイアの女』、いや、白石加代子のヘカベ、すごく観たくなってきました。と、思っていたら、1982年の第一回利賀フェステバルで上演された、劇団SCOT 『トロイアの女』(鈴木忠志演出)がDVD化されているそうです。さっそく注文してしまいました。まだ届いていませんが、楽しみです。生の白石加代子は、もう大分前ですが、私は1988年にSCOTの『王妃クリテムネストラ』(鈴木忠志演出)を観ました。やっぱりすごい存在感だった。