法ボケ

以下の追記もお読み下さい
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050205#p1
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050204#p1

強制撤去のニュース検索で発見した「記事」

愛知万博控え名古屋市、ホームレス“青い小屋”強制撤去
 公園をわがもの顔で不法占拠するホームレスの“青い小屋”。愛知万博開幕を2カ月後に控えた名古屋市は24日、市中心部の公園で施設移住を拒否する5棟を撤去するため行政代執行に踏み切った。ピーク時には約250棟がひしめき真っ青だった公園もこれですっきり。ブルーシートの中は床を張り、発電機でテレビも楽しみ、暖かい布団…こんな不法占拠は東京や大阪などで今も続く。〔写真:撤去を代執行するため不法占拠の小屋わきでホームレスを説得する市職員ら=24日朝、名古屋市中区〕(後略)

 この記事の中だけで「不法占拠」という言葉が6回も使われている。しかし、これは、本当に「記事」なんだろうか?2ち○んねるの書き込みではないのか? ここまでひどい記事だと、怒るというよりあきれる他はない。「これですっきり」と言ってのける神経には開いた口がふさがらない。
 しかし、そんなことを言うと、「お前も「不法占拠を支援する団体」の仲間か」などと言われてしまうのだろう。今日では、「不法」という言葉が殺し文句として使える、と信じて疑わない人々が大勢である。
「そうはいうけど、不法でしょう?」
「法を侵しておいて、えらそうなことを言うな」
「不法は不法」
 めずらしく同情する人がいても、こう付け加えることを忘れはしない。
「市のやり方もちょっとどうかと思う。まあ、不法占拠もよくないけど。」
 そんなことを言う人にかぎって、駐禁違反(路上の不法占拠!)をしょっちゅうやっていたりするのだが、そんな人も、こと「ホームレス」のこととなると、突然高飛車になって、上記のようなことを言い始めるのである。まあそれはともかく、そうした人々にとって、「法」というのは、自分たちの「平和」な市民生活そのものと分かち難く結びついた、空気のようなものとして意識されているのだろう。平和ボケ、いや法ボケである。そうした「平和」(向井孝なら疑似非暴力体制と呼ぶもの)が、いったいどのようなものによって支えられているのか。今回強制排除された野宿者は、8人。それに対して、名古屋市職員やガードマン600人と愛知県警の私服警官50人による圧倒的な(人数にして実に80倍!)組織暴力が加えられたわけである。
 フランスの反グローバル化活動家ジョゼ・ボヴェは、遺伝子組み替えのために栽培されていたイネを抜き捨てたり、マクドナルドの新設建物を解体する、などという「直接行動」によって、逮捕・投獄された経験をもつ。彼はかつて、「合法性より運動の正当性の方が大切」と語ったそうである。だが、そうした声は、法ボケの人間にはとどかない、いやそもそも理解されないだろう。「運動などよりも法的正当性の方が大切」というのは「あったりまえの話」としてみじんも疑われないのだ。「不法は不法ですが何か?」というわけである。*1
 とはいえ、言うまでもないことだが、「運動というのは常に合法性を無視する」というわけではない。むしろ、「運動」がまず訴えるのは、弱者の「不法性」をあげつらう側がその実「法にすら」従っていない、ということである。機動隊は、まったく「合法的な」デモに対して「不法な」妨害を加えてくる。今回のアベじょんいるらの行動も(自分たちが事実として認めている部分だけで)すでに、表現の自由、検閲の禁止を謳った憲法21条、放送への不干渉を定めた放送法3条に反する「不法行為」「違法行為」である。ところが、弱者の「不法性」をあげつらう側は、そうした強者の不法行為に対してはおどろくほど寛容である。実際のところ、彼らは、法ボケでありながら(であるがゆえに)法のことなどあまり重視していないのだ。彼らにとって大切なのは「どちらの側か」ということである。それは、「正当性」よりも「合法性」よりも大切な、一番大切なものなのだ。

以下の追記もお読み下さい
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050205#p1
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050204#p1

*1:彼らにとっては当然、政治介入の問題よりも、とある「法廷」の法的正当性とやらの問題の方が、大切であることになる。