猿虎M字開脚!

コイズミ・オブ・ジョイトイ

 政界の大仁田入りについてなかなかするどく分析した、面白い記事を見つけました。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050817

小泉にに賛成しないわけにはいかない?
(……)そんな中で面白いのは、選挙ですね。これほど政治ネタを楽しくみるのはそうそうないのかもしれませんね。毎日毎日、刺客とか、新党とか、そしてとうとうホリエモン登場ですか?ボクは、小泉支持ですね。とにかく郵政の参議院否決から、衆議院解散へと、小泉首相「おもしろいすぎ」ですね。こういうの個人的に大好きです。

 たしかに、おもしろすぎですよね。そんじょそこらのお笑い芸人より百倍面白い。ザ・ニュースペーパーというコント・グループの主要なネタは、小泉の物まねなのですが、これが爆笑なのです。しかし、ザ・ニュースペーパーの人は、小泉がいつも言っているようなことをそのままステージの上で引用しているだけなわけで、つまり、お笑い芸人であるザ・ニュースペーパーの人よりも、オリジナルの総理大臣小泉の方がはるかに面白いのです。こんな人を総理大臣になんかしておくのはもったいないと思います。彼はお笑い芸人になってもらって、かわりにザ・ニュースペーパーの人が総理大臣になった方がいいと私は真剣に思います。

ボクも郵政民営化が一番の問題とは思わないし、その郵政民営化に関しても、いろいろ問題があると思います。さらにこのわかりやすい郵政民営化の賛成派、反対派の2項対立が、そのまま改革反対ではない、そんな単純なことではないとは思います。そんなことは国民はわかっているでしょう。そのメタメッセージを受け取っているところの、小泉支持率上昇ですね。
今回の選挙は、「郵便民営化が争点」と演出されながら、「郵便民営化そのものを争点にしていない」ように演出されている。細かいところは色々あるが、それはひとまずおいて、「おれは構造改革一生懸命やってるだろう。でも見てのとおりなにかと回りの妨害で進まないんだよ。とにかくそれが、うざいと思うなら、国民投票でしめしてくれ。そしたらそのあとやりやすくなるからさ。」ということに賛成するか、反対するか、を問うという形に持ち込んだということでしょう。こういわれるとひとまず賛成しないわけにはいかない、ですね。
国民もよくみえない国会内の孤立化する郵政民営化議論で、小泉ももうダメかなとというところから、一気に国民を改革を問う形に持ち込み復活した展開のすばらしさに、感心します。細かいところは色々あるが、がんばって改革進めるだろうと思わせてくれます。

 そう、国民は「わかっている」のです。別に小泉の主張そのものに納得させられたり、騙されたりしているわけではない。彼の主張そのものには「いろいろ問題がある」ことは「わかっている」。だけど、そういう「細かいところ」ではなく、小泉の「演出」「展開」のすばらしさに感心しているわけです。だから、小泉に感心する、小泉を支持する、といっても、別に彼を実力ある政治家として認めている、ということではないのです。小泉は「演出家」「芸人」としてすばらしいということなのです。だから、「支持」するのです。
 さて、pikarrrさんは、次に、小泉とインリン・オブ・ジョイトイの共通点について指摘します。「その存在からつっこみどころ満載」(これはまさに小泉もそうですね)のインリンの「立ち位置が結構好き」というpikarrrさんはこう言います。

インリンやプロレスの面白さは、「ベタ」なところです。・・・ある対象を「ベタ」と名付け、呼ぶときに、・・・メタレベルに立って発言しています。本質的にはこのようなメタレベルの発言(まなざし)は権力構造の上になりたっているために、ボクたちは優越感を感じ、楽しいのです。
そしてインリン「あえてベタ」に「インリン」であり続けようとするときに、そこにあえてみじめであろうとする自虐性が潜んでいます。・・・「あえてベタ」に徹底する「インリン」、「あえてベタ」に走り続ける加藤浩次を前に、ボクたちはメタレベルのまなざしによって、笑っていればいいはずが、その自虐性という裂け目をもつ対象a、欲望の対象であり原因である対象aとして作動します。そして、ボクたちは加藤浩次を、インリンを欲望せずにはおれないのです。
さらにいえば、インリン」へのアイロニカルにまなざしは、知らず知らずに共犯関係に巻き込まれているのです。なんだ「ベタ」か、と処理するつもりが、見つめずにはおれない、欲望せずにおれない、それはインリンにとっての「おいしい」ツッコミです。
続 なぜ加藤浩次は走らなければならなかったのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050201

はたして、インリン自身はどの位置に立っているのか。インリンが「エロテロリスト」というときに、明らかにそれは演出である。しかしインリン自身はそれを演じながら、そこにマジがあるのではないだろうか。(ほんとのことはわからないが、そう思わせる。)そこに僕たちは哀れみを感じて、いとおしくなる。そしてそのときにはすでに僕たちはインリンに巻き込まれているのである。

 インリンは、「あえて」ベタに徹底している。インリンを「演出」している。そして、お茶の間(て古いか)にいる私たちは、そのことを十分「わかっている」。つまりメタレベルに立ち、優位に立っている。ところが、インリンの場合、それだけでなくどうも「演じながらそこにマジがある」ことが見え隠れする。そのことで、彼女はさらに「おいしい」のです。演出が見え見えなだけではなく、どうもそこにはマジがある。そのことも私たちは「わかる」から、さらにそこに「哀れみ」や「いとおしさ」を感じることで二重に優位に立てる。
 ところが、pikarrrさんは、そうやって「インリン」へアイロニカルなまなざしを向け、優位に立とうとしている私たちは、知らず知らずにインリンによって共犯関係に「巻き込まれている」と鋭く分析するのです。
 そして、その構図は、実は小泉でも同じなのだ、とpikarrrさんは分析します。

コイズミ・オブ・ジョイトイ
もしかすると、今回の小泉首相にも同様な「いとおしさ」と「巻き込み」の原理が働いているのではないだろうか。

コイズミが「あえてベタ」に「コイズミ」であり続けようとするときに、そこにあえてみじめであろうとする自虐性が潜んでいます。・・・「あえてベタ」に走り続けるコイズミを前に、ボクたちはメタレベルのまなざしによって、笑っていればいいはずが、その自虐性からコイズミを欲望せずにはおれないのです。
さらにいえば、「コイズミ」へのアイロニカルにまなざしは、知らず知らずに共犯関係に巻き込まれているのです。なんだ「ベタ」か、と処理するつもりが、見つめずにはおれない、欲望せずにおれない、それはコイズミにとっての「おいしい」ツッコミです。

言葉遊びですが、あながちおかしくもないでしょう。今回の「郵政民営化」議論において、参議院否決から、衆議院解散、選挙への流れは、すでにドラマティックであり、解散後の演説含めて、小泉首相のマジな悲壮感を感じました。そしていじめられた小泉が、僕たち国民に泣きついてきたのです。そこに僕たちは哀れみを感じ、いとおしく感じているのです
郵政民営化」を問うんだ!、わかりやすい改革派と改革反対派という単純な2項対立、あるいは刺客?というような「ベタ」な展開さえも、みな「あえてベタ」であることはわかっているという、メタレベルのメッセージ=コンテクストに共有を見いだしています。僕たちはまんまとはまっているというアイロニカルなまなざしも持っているでしょう。しかしインリンは応援しないわけにはいかないのと同様に、「小泉首相を賛成しないわけにはいかない」のである。そこにあるのは、小泉首相のマジな悲壮感への共鳴であり、すでに巻揉まれているのです。

 「僕たちはまんまとはまっているというアイロニカルなまなざし」というのはなかなか面白いですね。
 まず、私たちは「巻き込まれて」いながら、なお「あえて」巻き込まれているのだ、と思うことによって、優位を保つことができます。ただ単に「笑わされる」ことと、「ここは笑うところでしょ? はいはい、分かってるって」といって「笑ってやる」ことは全然違います。「ここは小泉支持するところでしょ? はいはい、分かってるって」……これは、一段目のアイロニーです。しかし、たとえ油断した私たちが思わず「笑わされ」てしまったとしても、大丈夫です。二段目のアイロニーを発動すればいいのです。すなわち「おれたち、まんまと笑わされちゃってるよ、プ」と、「笑わされている自分を嗤えばいい」のです。「あはは、おれたち、まんまと小泉支持させられちゃってるよ、プ」てことでしょうか。

醒めたくない夢

 つまり、余裕があるのです。みんな、小泉のことを「たかをくくっている」のです。「独裁者小泉をマジで熱烈に支持」なんて人はめったにいない。どこか、半分馬鹿にしているし、自分自身も半分醒めている(つもり)なのです。逆に、小泉のことを独裁者だとベタに批判する人を見ると「何マジになってんの? あんな面白いもの、支持するしかないでしょう」と嗤うわけです。小泉は危険なんかじゃないのです。……いや、危険であってはならないのです。なぜなら、小泉は、テレビの中の住人だからです。政治とは、テレビの中のプロレスと同じで、自分たちと関係ない、いや、関係があってはならないのです。だから、私たちは、安全なお茶の間にいて、四角いマットの上で繰り広げられる血しぶきを上げた闘いを眺めることができるのです。
 ところで、私たちが、メタレベルに立とうとする、すなわち優位に立とうとするのは、私たちに「不安」があるからです。その不安は、一つには〈現実〉に対する不安です。つまり、ブラウン管という〈虚構〉にあいた「裂け目」から、マジな、ベタな〈現実〉がお茶の間に侵入してくるのが怖いから(つまり貞子というのは〈現実〉の象徴なのです)。私たちは、「うわ、よくできてるね、この特殊メイク」というのと同じノリで、「よくできてるね、この解散劇のシナリオ」「まるでマンガだね、プ」とかいって、現実を「脱現実化」することで、不安を解消するのです。本当に怖ろしい目にあったとき、人は笑い出してしまうそうです。それは、「こんなの現実じゃない」と思うことによって世界そのものから逃避しようとする私たちの防衛機制なのです。
 そして同時に(ここが重要ですが)この不安とは、ベタに、マジになってしまいそうな自分に対する「不安」でもあります(つまり貞子というのは〈自己〉の象徴でもあるわけだ)。「プ」とか「必死だな」とか言って嗤う、つまりメタレベルに立つことによって、私たちは優位を保とうとするわけですが、よく見るとその嗤いは引きつっているのであり、「必死だな」と言っている人こそが実は「必死」に、「自分は必死じゃない」ことを示そうとしている、というわけです。
 というわけで、今回の場合、私たちは、政治の「お笑い化」、政治の「大仁田化」によって、〈政治〉と、〈政治的な自分自身〉から(無意識に)目を逸らそうとしているわけです。
 ところで、pikarrrさんの文章で一番面白かったのは「いじめられた小泉が、僕たち国民に泣きついてきたのです。そこに僕たちは哀れみを感じ、いとおしく感じているのです」というところです。実際は、いうまでもなく、小泉こそ、いじめてる張本人なわけですが(例えば在職中に約14万人も自殺とか、7年連続国民所得減少とか、国民生活4年連続悪化とか)、誰もそう思っていない。それは、テレビが、「小泉がいじめているところ」をまったく映さないからです。いやそもそも、テレビに映っていないものは、存在しないのです。「存在するとはテレビに映っているということだ」とかのバークリー僧正も言っています。それどころか、テレビは、まるで「小泉がいじめられている」かのような逆の「絵」(構図)を巧妙に作り出す。すばらしい「演出」です。
 しかも、「小泉にいじめられている」のは、実は私たち自身なのですが、私たちはそれに気づかない(あるいは気づかないフリをしている)。私たちは、安全なお茶の間で小泉がフォールされているところを面白がって「観戦」しているつもりなのですが、実は、私たちがいるのはリングの上で、私たちの見えないところ(つまりテレビが映さないところ)では、血しぶきをあげて苦しんでいる人々がいる。気づいた時には、私たちはマットの上で完全にフォールされていて、カウントの声が聞こえるのですが、その時はもう遅いのです。テレ・ビジョンとは、遠隔的にモノを見せる機械ではなく、私たちを見ることから引き離す機械なのです。
 というわけで、私たちは「これって演出でしょ? 分かってるよ」と思うことで、小泉やマスコミに対して優位に立っているつもりになっているのですが、実際は違うのであって、私たちは、小泉の強権政治が「演出ではない」ということが「分かっていない」のです。「騙されないよ」と思うこと自体が「騙されている」ことなのです。「わかって騙されているんだ」とさらにメタレベルに立とうとするのかもしれませんが、実はそんなメタレベルなどないのです。端的に騙されているだけなのです。その無力さを認めたくないから「わざと騙されている」と強弁するのです(「それもわかっている」と言い出す人もいるでしょうが、言うまでもなくそれは無限後退に陥ります)。

アンチコイズミ・オブ・ジョイトイ

 さて、このように考えると、実は、インリンと小泉が、全く正反対の存在であることがわかってきます。
 ネタのなかにマジをにじませることによって、テレビというシールドを破壊してお茶の間に〈現実〉を侵入させようとしているがインリンです。ところが逆に小泉は、〈現実〉をテレビに閉じこめようとし、マジな政治にネタのヴェールをかぶせようとしているのです。「ネタ」と見せかけて「騙されるな」というメッセージを密かに発しているのがインリンなら、端的に「ネタに見せかけようとしている」、端的に「騙そうとしている」のが小泉(とマスコミ)です。
 「巻き込む」という言葉を使えば、巻き込もうとする方向が、インリンと小泉では正反対なのです。現実に巻き込もうとしているのがインリン、幻想に巻き込もうとしているのが小泉です。
 インリンは〈現実〉という「裂け目」を見せようとしている(M字開脚!)のだが、小泉のあの能面のような虚ろな眼は、〈現実〉を隠そうとしている。
 演技であるフリをしてテロリストであろうとしているのがインリン、単にテロリストではないフリをしているのが小泉。だから、インリンがエロ・テロリストなら、小泉はさしずめテロ・エロリストです。
 いや、そうではありません。お茶の間(洞窟)というニセのリアルの壁をうち破って、真の現実(リアルなリアル)と関わろうとすることがエロスだとするなら、インリンこそ真のエロリストであって、小泉は単なるテロリストだ。(アイドルとプラトンと偶像に関しては、昔書いた「黄昏の偶像」というエッセイをお読み下さい)
 やはりここらで、そもそも小泉とはドクター・マシリトであったことをもう一度思い起こさねばならないと思います。ドクター・マシリトとは鳥山明ドクター・スランプ』の悪役「キャラ」ですが、周知のように、これは、鳥山の編集者であった現実の人物であるトリシマ氏がモデルです。つまり、小泉の出発点は、〈現実〉のキャラクター化だったのです。インリンはそうではありません。インリンは、キャラクターから出発して、私たちを現実に導こうとしているのです。(小泉とマシリトについては昔書いた「キャラメルマン」というエッセイをお読み下さい)。

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 というわけで、おそろしく長くなってしまいましたが、私はインリンを断固「支持」しますが、だからこそ小泉は絶対に(政治家として)支持しません。
インリンの8.12日記>http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50100899.html
インリンの8.15日記>http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50112375.html