「韓国人の発音はすべて半濁音」という珍説

 facebookで流れてきたので、つい読んでしまったのだが、あまりに酷いので呆れてしまった。
www.sankei.com

夕刊フジに掲載されたようだ。
 さて、この部分。

誰も語らぬことがある。韓国人は清音と濁音の区別が苦手なこと。端的に言えば、韓国人の日常の発音は、すべてが「半濁音」であることだ。
それは「悪いこと」「劣っていること」ではない。発音が原則「半濁音」である言語文化圏で生まれ育てば、耳はそれに順化し、発音もそれに従う。

 そもそも「清音」や「濁音」とは、日本語の音韻に関する用語である。だからこの言葉を日本語以外の言語(朝鮮語)に当てはめる事自体がおかしい。ただ、「清音」「濁音」は、それぞれ音声学で言う「無声音」「有声音」と重なる部分があるため、百歩譲って、室谷氏が有声音や無声音のことを言っていると考えるならば、たしかに、朝鮮語は有声音(濁音)と無声音(清音)を音(音素)として区別しない。正確に言えば、朝鮮語の音韻体系では、有声性は音素を区別するための弁別的特徴となっていない、だ。しかし、そんなことであればwikipediaにだって書いてある。「誰も語らぬこと」でもなんでもない。だいいち、もともと朝鮮語には区別がないものを朝鮮語が区別しないことは、その必要がないということであって、つまり「苦手」もくそもない。
 最も意味不明なのは「韓国人の日常の発音はすべてが半濁音」「発音が原則半濁音」というところだ。「半濁音」は、日本語の「パ行」の音のことを表す言葉であり、これはもう他の言語に当てはめることがどう考えてもできない言葉だ。「韓国人の日常の発音はすべてが日本語のパ行の音だ」だとしたら、んなわけあるか、という話でしかない。「アメリカ人はひらがなとカタカナの区別が苦手なのですべてが漢字である」と同じレベルの意味不明な文である。なるほどそうか。確かにこんな馬鹿なことは室谷氏以外「誰も語らない」だろう。
 室谷氏が、言語について、これまでわずかでも関心を寄せたことがあるとはとても思えないレベルでおよそ初歩的な知識も持たないことは明らかである。にもかかわらず、彼は「韓国人の発音はすべて半濁音」などという珍説を「誰も語らない事実」のごとく得意気に開陳し、よその国の言語について偉そうに語っている。なぜ彼はそんなことをしようとするのか。その答えはこのコラムに書いてある。

しかし、「半濁音」である事実*1を客観的に捉えられないと、「わがハングルは、世界中のあらゆる言語の発音を表記できる」という夜郎自大に陥ってしまう。

 しかし、韓国人の大多数は「ハングルはあらゆる発音を表記できる」と信じている。
 であればこそ、「いまだに固有の文字を持たない哀れな民族に、優れたハングルを教えて、その民族の文字として採用させよう」という主張が〝正論〟のごとく登場する。
 その典型が、韓国で発行部数2位の「中央日報」(2023年10月5日)に載った「韓国だけで使うにはもったいない 〝ハングル分け合い〟を深く考える時期」と題するコラムだ。その筆者が「国立世界文字博物館館長」とは、もうあきれるほかない。

 室谷氏が言及している「中央日報」のコラムとは、これだろう。

s.japanese.joins.com

 つまり、韓国に関する何か(この場合はハングル)が「優れている」という主張を見つけたら、その問題に関する知識をまるでもっていなかったとしても、根拠がデタラメでも、とにかくその主張を否定する。それが重要なのである。そしてそうした文章に需要がある。韓国を否定し、けなす内容であれば、「韓国人の発音はすべて半濁音」のようなデタラメが含まれていようが、何らかの有識者が書いたコラムであるかのような体で、全国どこの駅にも売っている「夕刊フジ」という夕刊紙に掲載されてしまう*2。それこそ「もうあきれるほかない」だ。
 もちろん、「中央日報」のコラムの

ハングルが持つ文字的特性を十分に活用するなら、無文字言語(字で書かない言語)や難文字言語(字が難しくて書いて読み取ることが難しい言語)を簡単に書き取ることができる。

 などの主張には、ハングルには有声音と無声音の区別がないのは事実であるから、反論の余地がある。しかし、室谷氏にとって、問題は、まともな「反論」や「批判」ではないのだ。

 さて、どうも室谷氏は「半濁音」を、「半分濁音(有声音)で半分清音(無声音)」という意味だと思っているようだが、全く違う。日本語でもともと「ハ行」の音は[p]音で発音されていたのだが、次第に[φ]や[h]で発音されるようになった。それでも[p]の発音自体は残っていたが、その時は[p]と[φ]や[h]は区別されず、同じハ行の音、つまり「清音」として認識されていたのである。しかし後に外来語が入ってきたりして、[p]の音を「別の音」として区別するようになった。それに伴い「ハ行」でも「バ行」でもない「パ行」を区別して表記する必要が出てきた。濁音の記号は従来「・・」ないし「。。」で表記されていたが、「パ行」を表すために「・」や「。」が用いられるようになった。それが半濁音の「半」のもともとの意味だ。音声学的には「半濁音=パ行の音」は「ハ行の音」と同じ「無声音」である。
 一万歩ほど譲って、かりに、半濁音が「有声音でも無声音でもない音」の意味だったとしても、室谷氏の文はおかしい。有声音と無声音を区別しない、ということは、朝鮮語に有声音や無声音が無い、ということではないからだ。朝鮮語の/ㅂ/は、[p](無声音)ないし[b](有声音)のどちらかの音で発音されているので、どちらでもない音で発音されているわけではない。ただ、それらの音は別の音として認識されていないというだけだ。
 室谷氏のコラム、他の部分もつっこみどころが満載なのだが、たとえばここ。

英語のF・V音やTH音を正確に書き表せないことは、ハングルも日本の平仮名・片仮名も同じだ。ハングルは「つ」「ざ」「ず」「ぞ」音も表記できない。

 ハングルのほうが「(外国語を?)正確に書き表せない」音が多いぞ、といいたいのだろうが、そんなことを言うなら、ハングルが表せる母音は10種類だが、日本のひらがな・カタカナが表せる母音はアイウエオ、半分の5種類しかない。また、日本のひらがな・カタカナは、朝鮮語の平音・激音・濃音の違いも表せない。「달(月)」「탈(仮面)」「딸(娘)」が全部「タル」になってしまう。
 ところで、先に述べたように、ハングルに有声音と無声音の区別がないのは、朝鮮語では有声音と無声音を(音素として)区別しないからである。ところが、日本語には有声音と無声音の区別があるにもかかわらず、日本の文字はしばしばそれらを区別しないのだ。つい最近まで、「天皇神聖にして侵すべからず」を「侵スヘカラス」などと書いていたではないか。「ヘカラス」を「hekarasu」と発音したら間違いとされるにも関わらず。平安時代に成立した当初、仮名は濁音と清音の区別がなかった。万葉仮名では区別されていたので発音の区別はあったはずなのに、文字では区別がなかったので、文脈で読むしかなかった。濁点や半濁点などは、このような「区別があるのに表記できない」という不便を解消するため、後から使われるようになった補助的記号にすぎない。つまり、日本の文字は、長らく、外国語どころか、自分の国の言葉でさえ「正確に書き表せない」状態が続いてきたのだ。さらに、日本語は、アクセントによって意味が変わる言語である。「↑は↓し(箸)」と「↓は↑し(橋)」(関東の場合)は違う語だが、平仮名やカタカナはその区別を今でも「正確に書き表せない」という「欠陥」がある。はて、朝鮮語にない区別を区別しないハングルと、日本語にある区別を区別することすら「苦手」な日本の文字。文字の優劣を比べて語る事自体が愚かなことではあるが、もしそういう比較をするというなら、「劣っている」のはどちらだろうか?
 しかし、なぜ平安時代の平仮名は有声音と無声音を区別しなかったのだろうか。たとえば日本語には連濁という現象がある。「日傘」のように、2つの語が連続した場合、後の語の「かさ」の「かka」が「がga」と有声音(濁音)に変化するのである。つまり、日本人は、実際は無声音(清音)で発音する「kasa」と有声音(濁音)で発音する「gasa」を、同じ語(形態素)として認識するのである。このことからもわかるように、日本人は、濁音(有声音)と清音(無声音)を音(音素)として区別しながらも、場合によっては交換して用いる*3。つまり日本人は、濁音(有声音)と清音(無声音)を区別しながらも「ある程度似たもの」として捉えていた、とも言えるのではないだろうか*4
 ところで、かつての日本語では語頭に有声音(濁音)がくる語はなかった。後に入ってきた漢語を別とすれば、例えば「だく(抱く)」という語も、もともとは「いだく」だったのが、語頭の母音が脱落したものだ。で、朝鮮語では、語頭の子音は無声音で発音するが、2つ目の文字の子音は有声音になるという、連濁に似た法則がある。例えば「부부(夫婦)」は「プブ」と発音する。そういう意味では、日本語と朝鮮語は、結構似ているともいえるのだ。

*1:いやそんな「事実」ねーし…

*2:web版のみ掲載ではなければ。

*3:屋名池誠氏は、平仮名が有声音と無声音を区別しなかった理由を「連濁」と関連付けて以下のように考察している。
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-01010001-0022.pdf?file_id=105214
たしかに清濁を同じ文字で表すと、濁音で別の意味になる場合(語彙的濁音)には不便だった。しかし一方、有声音と無声音に別の文字を当ててしまうと、連濁しているだけの語が別の語に見えてしまう。ただ、連濁が非常に頻繁に起こるのに対して、濁音で別の意味になる場合は相対的にかなり少なかった。そこで、平仮名では、前者の不便を犠牲にして、濁音を同じ文字で表す方針をとったのではないか、と屋名池氏は推測している。

*4:有声音と無声音を区別しながら文字表記で区別しないのは、古代ローマでもそうだったようで、/k/と/g/を区別しながら同じ「C」という文字で表していた。「G」という文字はそれを区別するために「C」を元に後から作られたのだ。