太平洋のこちら側の馬と鹿

 朝日新聞「天声人語」が、「馬鹿」の語源と言われる『史記』のエピソードを紹介している。

 秦の大臣に趙高という人物がいた。皇帝に鹿を献上しておきながら「これは馬です」と言いはる。皇帝は笑いながら、周りの意見を求めた。大臣の権勢を恐れて、ある者は黙り込み、ある者は媚(こ)びへつらう。見たままに「鹿です」と言った者は、あとで趙高に処刑された

 コラムの筆者は、このエピソードの趙高を、「メキシコ湾」という表記を使ったAP通信を出禁にしたトランプ政権になぞらえる。そして、「時の権力者がものの呼び名を勝手に変え、従わない者にペナルティーを科す」とは信じがたい、と嘆き、抗議声明を出したホワイトハウス記者会に、「メディアの一端を担う者として」エールを送る。コラムの締めの文章は

 ここ1カ月ほど、太平洋のあちら側から流れてくるニュースを見ていると、憂鬱(ゆううつ)な気分になる。趙高の周りからは過ちを指摘する者がいなくなった、というのが歴史書の述べるところだが、さてこの先どうなるのだろう。

である。
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 しかし、「太平洋のこちら側」ではどうだろうか。つい最近のことだが、2021年4月、日本維新の会の馬場伸幸幹事長の質問主意書に対する、「従軍慰安婦」の「従軍」という言葉や、朝鮮人の「強制連行」「強制労働」という用語は適切でないとした政府答弁が閣議決定された。その後、(これまた維新の)国会議員による質問に対して萩生田文科相が「今後そういった表現は不適切になる」「検定基準に則した教科書記述となるよう適切に対応する」などと答弁。これを受けて、文科省は5月、関係する教科書会社を対象にオンラインで「説明会」を開き、事実上の訂正を要請。そして、中学・高校教科書の「従軍慰安婦」や「強制連行」などの記述について教科書会社5社が訂正を申請し、文部科学省が承認したことで、実際に教科書の「従軍慰安婦」の「従軍」が削除されたり、「強制連行」の用語が変えられたりしたのである。
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 また、これは昨年2024年のことだが、日教組の教研集会で用いられた授業実践を紹介するレポートの中に「汚染水」という言葉があったことについて、自民党が「『核汚染水』と称して虚偽の情報を世界中へ発信している中国と同様である」「純粋な子どもたちに学びを教える現場での事案であることから、看過できない問題である」などとする意見書を出したこともあった。
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 このように、太平洋のこちら側も、鹿を献上しておきながら「これは馬です」と言いはった趙高さながらに、汚染水を放出しておきながら「これは処理水です」と言い張り、見たままに「汚染水です」と言った者に圧力をかけようとする権力者が大きな顔をしているという点では、あちら側の状況と大した違いはない。それどころか、上のニュースを伝える朝日新聞を含めほとんどの報道機関は、何かの「権勢を恐れて」かどうか知らないが、右へ倣えで「処理水」の言葉を使っている。朝日新聞など、汚染水を汚染水と言って日本からの水産物禁輸を発表した中国に対して「筋が通らぬ威圧やめよ」「巨大市場を武器に、貿易で他国に圧力をかける「経済的威圧」にも等しいふるまいだ」「合理性を著しく欠いた措置に、強く抗議する」などという、逆ギレもいいところの社説を出している。
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 そもそも報道の自由ランキング70位の日本で、記者クラブが政府に抗議声明を出したなど聞いたことがない。ホワイトハウス記者会に「エールを送る」前に、こちら側で何かできることがあるのではないだろうか。
 というか、朝日新聞は「悩みのるつぼ」という人生相談のコーナーに「ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃、トランプが再選されるかもしれない、などの不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という相談を寄せた読者に

このお悩みを読んで、まず最初に思ったことは、そんなに心配なさっているのなら実際に戦場に出向いて最前線で戦ってくればいいのにな、ということです。

 と言い放った野沢直子の最低の回答を掲載したのだが、彼女はトランプについても

バイデン大統領になってからゆるくなった移民政策のお陰で移民が押し寄せ過ぎて迷惑している都市もたくさんあり、トランプ元大統領のやり方は突飛(とっぴ)だったけれど、方向性としては間違ってなかったのではないか、彼はそんなに酷(ひど)い大統領ではなかったのではないかと思い直している国民もいると思います。

などと言っている。
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 さらには、これを受けた「コメントプラス」で、朝日新聞編集委員藤田直央氏は「沖縄に行かれて、本土ではまれな米軍基地と隣り合わせの生活をご覧になればどうでしょう。」と読者を挑発している(その後藤田氏は謝罪コメントを追加掲載したが、当該コメントはその後謝罪の上削除された削除されていない)。
 また、朝日新聞記者の神田大介氏は、旧ツイッターで、野沢の回答について「野沢直子さんがすごい!」と称賛する投稿をしているのだが、彼はかつて、朝日新聞ポッドキャストで「トランプ氏がかわいいからだと思うんです。」「かわいいじゃないですか。ちゃめっ気があって。」と発言していたのだという。

 ところで、上の朝日新聞の「天声人語」を読んだ時、私はかつて常野雄次郎氏がブログで紹介していたジジェクの話を思い出した。

B:でもね、本当にスゴイ全体主義社会では、自由が抑圧されているという事実それ自体が抑圧されるんだって。ジジェクが言ってた。
A:またジジェクかよ。どういうこと?
B:たとえばさ、ソ連の議会かなんかで、「スターリンは最悪だ。あんなのやめさせろ!」って誰かが叫ぶとするじゃん。で、それに対して、横に座ってた奴がさ、「気でも狂ったのか? 同志スターリンを批判することが許されるわけないだろ!」って糾弾したとしたら、その注意したやつの方が先に撃ち殺されるんだって。つまり、あくまでも、批判精神や、自由闊達な言論が許されている中でスターリンが支持されてるっていう外観を保つことが重要だったんだ。

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 実は、見たままに「これは鹿です」と言った者よりも、それに対して「大臣閣下を批判するのか!」と糾弾した者の方が、先に処刑されるのである。「これは鹿です」と言うものは、「言論の自由」が保たれている見かけを作り出すのに役に立つのだから、安全なのだ。皇帝は笑いながら見ているだけだろう。
 というわけで、「海の向こうでは、驚くべきことに鹿を馬と呼ばされるらしい。憂鬱な気分になる」というコラムを掲載している新聞が、同じ紙面で「本日素晴らしい馬がわが皇帝に献上されました」と伝えるニュースを掲載していたりすることも、よくあることなのである。