安全と身体

 『ダ・ヴィンチ』6月号、買いました。前から書いているように、目当ては、山岸凉子のマンガ「テレプシコーラ」です(先月休載だったのでひさしぶり)。で、これまた前も書きましたが、この雑誌、何というか、ぬる〜い雑誌で、正直いって、「テレプシコーラ」がなければ、購読することはなかったろうと思います。なんて、偉そうですね。すいません。とかなんとかいいながら、けっこう読んでいるんですけどね。もちろん中には面白いのもありますが、たいていは、惰性でなんとなく読んで終わり、という感じですかね(て何様ですかね、私)。というわけで、そんな、なんとなく読んでしまうものに吉崎宏人氏の『ご隠居サマと熊さんの ニュースの寺子屋』というコーナーがあります。「新聞、ニュースで騒いでいても、どうもイマイチ腑に落ちない。あんな事件にこんな事件、いったいどうして起きてるの?平成の床屋政談、『ニュースの寺子屋』」ということで、今回のテーマは、「回転ドアや遊具による相次ぐ子供の事故。あるいはイラク人質事件から「安全」について考える」だそうです。で、そのイラク人質事件に関したところです。

熊さん「安全といえば、イラクの人質事件はどう思います。『個人の安全』に、『国家』てえものが絡んできますが」
ご隠居「ペルーのテロリストによる日本大使公邸占拠事件を覚えてるだろう」
熊さん「人質は15人。ペルー政府は150人の特殊部隊を送り込みました」
ご隠居「兵士2名、人質1名が犠牲となったが、ペルー政府は5人の犠牲者までを計算していたから、政府としては作戦は成功だった」
熊さん「犠牲者が出ているのに?」
ご隠居「この場合、個人の安全と、社会の安全はトレード・オフの関係にあるということだね」
熊さん「じゃ、今回のイラク人質事件の場合はなおさら……」
ご隠居「危険だという警告にも拘わらず、危険も想定しながら自らの意思で現地に残ったという意味では、仮に最悪の結果でも致し方なかった」
熊さん「是非はともかく、自分の安全最優先なら近づくなと」
(……)
ご隠居「ある大学の先生が言っていたけど、これは『身体性』の問題とも関係あるらしいよ。危険な場所や人物に近づいたとき、人間は本来『ヤな感じだな』というのを身体で感じたものだ」
熊さん「その感覚が鈍っている、と」
ご隠居「そういうすき間に、犯罪がやすやすと忍び込んできたりする」(『ダ・ヴィンチ』2004年6月号 p.138.)

 ……ま、このような意見はそこらにあふれているわけで、いちいち目くじらをたてるほどのものではないとは思うのですが、ちょっと、どうかなあと思いました。
 小泉首相は「自分たちの目的達成のために全く関係ない市民、国民を殺戮して平然としている」のがテロリストだと国会で語ったそうです。てことは、「自分の安全最優先なら近づくな」という吉崎氏の意見に従えば、ファルージャで子供も含むイラクの市民、国民を700人も殺戮して平然としているこんな危険なテロリストの国、アメリカは、真っ先に渡航禁止にでもしなきゃいかんことになりますね。そうそう、マイケル・ムーアの『ボーリング・フォー・コロンバイン』によると、アメリカの銃による死亡者数は年間11,127人(ドイツ381人、フランス255人、カナダ165人、イギリス68人、オーストラリア65 人、日本39人)。こんな国に行こうという人は、自己責任なのだから、強盗に撃たれて殺されても助けを求めたり、文句をいったりしないことですね。しかし、「危険な場所に近づくな」と言われたって、逃げる場所のない場合はどうするのでしょうか。自分の家に武装集団、テロリストたちが襲ってきて、狙撃されたり、クラスター爆弾を落とされたりする。それは、「最悪の結果」でなくてなんだろう、と思いますが、そんな中、イラクの市民、国民は、「個人の安全」を省みずに、「社会の安全」を守るために「テロとの戦い」に立ち上がった。ところが、吉崎氏の目には、どういわけか、彼らは「危険なテロリスト」にしか見えないようです。ペルーの日本大使公邸占拠事件については、ずっと前書いたことがあるのですが、このとき、「ペルーのテロリスト」フジモリ大統領は、人質を一人も傷つけなかったMRTAの兵士を、投降して無抵抗なものをも含めて、14人全員皆殺しにさせました。ところが、やはり吉崎氏の目には、この14人は単なる「テロリスト」にしか見えないらしく、その死は、「犠牲」の数には入らないらしい。……ま、いいでしょう。こんな風に思っている人はめずらしくもないわけで。ただ、それだけに、ご隠居気取りでしたり顔、てところが、ちょっとさむいですね。もちろん私もさむいはずした文章を書くことでは人のことは言えないわけですが……。それにしても、最後に「身体性」の話を持ってきているところが、これまた皮肉がきいています。まったく、このような文章を書いてしまうというのは、まさしく「身体性」の問題ですね。やすやすと馴致されてしまっている身体が「身体感覚が鈍っている」と警告を発しているという皮肉。それこそ「そういうすき間に権力はやすやすと忍び込んできたりする」ので、気を付けないと(結局最後まで偉そうですいません)。
 さて、もう一つ、『ダ・ヴィンチ』からの話題。こちらは、けっこう面白いなあ、と思って毎回読んでいる藤野美奈子氏の連載「みなっちの失恋反省会」。これは、藤野美奈子氏が、自身の体験もおりまぜつつの恋愛話をするエッセイマンガです。今回みなっちは、母親に「どーしてあんなしょーもないお父さんと結婚したの?」と訊ねたときのことを描いています。洗濯物をたたみながら母親はこんなふうにうち明けます。「かあさん5人ほどお見合いしてね あんたのおじいちゃんが決めたの 父さんにしろって 昔は親の言うことは絶対だったからね」その5人の内訳は、「高校教師、公務員、大病院内科医、まあまあでかい和菓子屋の息子、サラリーマン」なのですが、かあさんは、3人目(大病院内科医)がいい、と思いながらも、おじいちゃん(父親)のアドバイスにしたがって5人目(サラリーマン)と結婚したわけです。ところが、結婚して3年目、おじいちゃんは、かあさんをこっそり部屋に呼び「すまん ワシの目が狂っとった やっぱり三番目がよかった」と頭を下げるのです(家族にいっさい頭を下げたことのないおじいちゃんだったとのこと)。「でも5番目にも少しはいいとこあったんでしょ?」と問いただすみなっちに、かあさんは、結婚生活を続けるほどにお父さんの人間の器の小ささが明らかになった、と救いがないことを言うのです。かあさんはため息をつきながらこう言います。

「時々ねえ……テレビの筑紫哲也にバカみたいにくってかかる父さん見るとね どうしてこんなちぃ〜〜こい男にヨメにきちゃったのかと思ってね……」
(テレビにくってかかるお父さんの小さい絵)
「ふざけんな!おまえの話はもう聞かん!!」
(『ダ・ヴィンチ』2004年6月号 p.59.)

 もしや熟年離婚、と心配するみなっちに「ばかね、人生トータルよ」「最後に笑ってポックリいくんが勝ちなんよ」と器の大きさを見せるかあさん、というのがオチなのですが、私が注目したいのは、「テレビの筑紫哲也にバカみたいにくってかかる」てところなのです。このマンガ、どの程度実話に基づいているのかわかりませんが、この「筑紫哲也」ていうのが、すごくリアリティがあるのです。器の小さいお父さんがくってかかるのは、「小泉」でも「石原」でもなく、なんといっても「筑紫哲也」でしょう。このお父さんは、確実に「朝日新聞」も敵視しているでしょうね。これ、案外根の深い問題ではないか、とも思うのです。なぜお父さんは筑紫哲也が嫌いなのか。お父さん、こう言ってはなんですが、絵に描いたような、「負け組」ではないでしょうか。「高校教師、公務員、大病院内科医、まあまあでかい和菓子屋の息子」に軒並み破れた、しがないサラリーマン。かあさんと結婚できたのかもしれないが、それも失敗だったと言われ、かあさんには人間の器が小さいとバカにされ、娘には「しょーもないお父さん」とバカにされ……。そうしたやり場のないうっぷんのはけ口が、テレビの筑紫哲也に向けられる。しかし、なぜお父さんは、筑紫哲也にバカにされている、と思うのか……小泉や石原を応援してしまうのか。小泉の言う「痛みをともなう構造改革」とやらは、また、小泉が尻尾をふるアメリカが輸出しているグローバリズムなるものは、勝ち組がますます勝ち、負け組がますます負けるような社会を作りだすのではないか。「負け組」が、「自己責任だから仕方ない」と切り捨てられる世の中を作り出すのではないか。
 誤解されないように言っておきますが、私も、筑紫哲也朝日新聞も、大嫌いですよ。ですが小泉も嫌いだ。ところが、なぜお父さんたちはあんなにも小泉にやさしいのか。