われわれは人質だ

1954年11月1日未明に突如としてアルジェリア各地で起こった武装反乱は、フランス政府やアルジェリア総督府から「少数のテロリスト」またはひとにぎりの「暴徒」の仕業と決めつけられたけれども、これも一世紀以上の抵抗の伝統をひきつぐものだった。そしてやがてこの「テロリスト」ないし「暴徒」は、民族解放戦線(FLN)という政治組織と、軍事組織(ALN)を持ち、広汎な住民の支持を得ていることが、徐々に判明していったのである。
 武装ゲリラたちは、人民の大海にかくまわれ守られて、フランスに抵抗した。これに対してフランスは現地の軍隊を増強して徹底的な弾圧を行ない、不審な者と見れば片っ端からとらえて拷問を加え、自白を強要した。*1

 フランツ・ファノン西インド諸島マルチニック島に生まれ、フランスで精神医学を学んだ彼は、精神科医として赴任したアルジェリアで、革命に身を投じ、FLNのリーダーの一人となった。植民地支配下の暴力のあり方の分析を通じて、独自の暴力論を唱え、60年代以降の第三世界の独立闘争に多大な思想的影響を与えた彼が、晩年、白血病に冒されながらわずか10週間で書き上げた主著が『地に呪われたる者』である。彼はこの本の刊行の数日後、36年の短い生涯を終えた。この書物は、1968年、鈴木道彦と浦野依子によって日本語に訳され、出版されている。巻末には、訳者の鈴木道彦による「橋をわがものにする思想」と題された「解説」が収録された*2。「解説」という言葉から予想されるものとはまったく異なる、この、異様なほど熱を帯びた鈴木道彦の文章*3に、私が付け加えることのできるものはほとんどない。ここで、そのごく一部を紹介したい。それは、1968年9月に執筆されたこの文章を、今紹介しなくてはならない、という思いがあるからでもある。

 金嬉老の暴力を作り出したのは、日本国家だ。だがまたそれは、われわれだ。われわれはこの日本社会において、特殊な場合を除けば、日本人であるという理由によって差別された経験をもっていない。そのことがすでにわれわれを犯罪者たらしめているのだ。なるほど金嬉老の告発は専ら警察に、すなわち国家権力に向けられた。とはいえわれわれもまた、心ならずもその国家を支える歴史的日本人として、金の告発する当の差別者にほかならない。だからこそわれわれ日本人のすべてが、いつ何時でもいきなりライフル銃をつきつけられ人質にされるための、充分な理由を持っているのだ。私はそのことを小松川事件いらい、繰り返して考えた。また金嬉老事件を知ったときに、真っ先に私は自分をいわゆる「人質」の身に置いて考えようとつとめたし、その立場を今も崩したいとは思わない。要するにわれわれは法に裁かれる犯罪者ではないからこそ、法の共犯者となり、金嬉老の暴力を向けられる対象としての犯罪者となるのだ。

 われわれはこの告発を避けることはできない。だが誤解を恐れずに敢えて言うならば、金嬉老はわれわれを告発することによって、実はわれわれに解放の手をさしのべてもいるのだ。金は日本人を人質にして国家権力と対峙した。つまりわれわれは人質だ。そして人質になるとは不当であり、不幸なことだとわれわれは考える(私は自分が人質になった場合に、そのような印象を持たぬと断言する自信はとてもない)。それはすでにわれわれが、日本人として、国家を己のうちに無意識にしのびこませている証拠である。ファノンは集団的無意識を語ったが、われわれの集団的無意識は、個人としてまったく差別をした経験もない自分が、ある日突然人質になることの不当さを感じるときに、実は明白に示されているのだ。われわれがまず第一に明らかにしなければならぬのは(つまり「意識化」せねばならぬのは)、この集団的無意識であり、己の内部にくいこむ国家である。そしてそれを意識化する方法がただ一つしかないことは、ファノンの例でも明らかだ。すなわち金嬉老の告発した日本の国家権力に、われわれの立場から激しい告発を対置させることだ。私の考える民族の責任という課題も、この長く苦しい闘いによってしかとりようのないものであり、またこの闘いのみがわれわれを差別から解放する端緒だろう。それというのも差別することを受け入れるとは、差別されることにほかならないからである。
(鈴木道彦「橋をわがものにする思想」、フランツ・ファノン著作集3『地に呪われたるもの』、みすず書房、213-4頁。)

*1:フランツ・ファノン『地に呪われた者』みすずライブラリー版訳者解説336ページ。

*2:現在入手可能なみすずライブラリー版では新たに書かれた解説と置き換えられている

*3:これは、鈴木道彦『政治暴力と想像力』1970、現代評論社、にも収録されている。