「反戦」て言ったら負けかな、と思ってる
みたいなのも結構あるように思うのですよね。正直言って。
さて、考えてみれば「Aするだけじゃだめ」というのは「だからAをしない」ということにはつながらない。「ただ働くだけじゃだめだ」というのが正しいとして、「だから働かない」という理屈はなりたたない*1。ところが、反戦の場合、「反戦と言わない」ことの言い訳として「反戦とただ言うだけじゃだめだから」というのを持ち出している人が結構いるように思います。一方、Aを満たして、その上で「何をすればいいだろう」と考えようとして「Aするだけじゃだめだ」と言う人もいる。ところが、それらは表面上「Aするだけじゃだめ」という同じ主張になってしまう。というわけで「反戦についての言説」の増殖という現象が生じる、と。コメント欄でid:t-b-sさんもおっしゃっていたことですが、たしかにそういう面はあるかもしれません。
それから、三崎氏の「私は、戦争反対と発言したりするほど戦争について考えているわけじゃない。そんな負い目のようなものを常に持っています。」と同じ様な発言も、しばしば耳にします。そういう風に悩んでしまう方は、(三崎氏も含めて)おそらくとても誠実な方なんだと思います。一方に、何も考えずに「ブッシュマンセー、小泉マンセー」という人々がいて、他方に、何も考えずに「戦争反対」とだけ言っているラブ・アンド・ピースな人々がいる(とされる)。で、「私はもちろん、ブッシュ小泉マンセーじゃありません。でも、だからといって、まだ考えていないのに『戦争反対』と叫ぶ勇気がないのです。よく考えていないのに『戦争反対』と叫んでしまったら、それは考えずに戦争を肯定している人々と同じになってしまうのではないか、という気がして……」とそんな感じなのでしょうか*2。むしろそういう人々が多数派なのかもしれない、とも思います。その逡巡を頭から非難するいわれはむろんありません。しかし難しいのは、逡巡する多数派と、少数の考えない戦争肯定派と考えない戦争反対派がいるとして、結局のところ、現状はいわゆる戦争肯定派の思う通りにことが進んでいるわけで、身も蓋もない言い方をすれば、その中で沈黙することは、反戦派の助けには決してならないが、戦争肯定派を助けることには確実になってしまう。さらに、微妙に、「『反戦』と言うこと自体が『考えていないこと』だ」という前提が紛れ込んでいるような気がするのです*3。つまり、「考えろ」というのが反戦に対するブレーキに直接つながってしまう。「あいつらは何も考えてない。デモに行って騒いでるだけのバカだ」というわけです。
さらに難しいのは、一方で「戦争反対なんていうのは、アタマノイイ人々の、口舌の徒たるインテリの、プロ市民の、机上の空論だ」みたいな言い方もある*4。そういう仕方での反戦への反撥もある。反戦派に異様に敵愾心を燃やす人のなかには、考えることへのコンプレックスが、考えることへの憎悪に転化したものがあるのではないか。ほとんど「考えるな」という強迫観念のようなものになっている場合もあるように思います。まあそれはともかく、この場合、「考えるだけじゃだめだ」とことさらに言われる。今度は逆に、「あいつらは考えてるだけだ。実効性のある行動をしないインテリだ」というわけです。極端なのは「軍人さんは無駄口を叩かずに汗と血を流して国民を守っている。口先だけのやつらに偉そうに戦争を批判する資格はない」となる(そういいつつ、戦争肯定派こそ、たいていは口先で反戦を批判してるだけだったりするんですけど)。
結局、「考えろ」というプレッシャーと「考えるな」というプレッシャーがどちらも反戦へのブレーキとなってしまう、という八方ふさがりの状況があると言えるかも。
しかし、可能性としては、全く逆の組み合わせだってありうるわけです。「考えろ」が戦争へのブレーキになって、「考えるな」が反戦を後押しする、という組み合わせだってまったくあり得る。なぜ今、こういう反反戦の組み合わせになっているのか、それを考えなくてはいけないのかもしれませんが……。