となり町戦争

 今月号の『ダ・ヴィンチ』をつらつら見ていたら、『となり町戦争』の著者三崎亜記氏のインタビューが載ってました。1970年生まれで、現在も福岡で公務員として働いている方だそうです。私はこの話題の本、まだ未読なんですが、面白そうなので読んでみようと思っています。設定だけ見る限り、筒井康隆×永井豪の怪作反戦マンガ『三丁目が戦争です』を思い出しますが、そういうテイストの話ではないみたいですね。ただ、インタビューの中のこの発言が、ちょっと気になりました。

「私たちの世代というのは、ほとんど刷り込みのように反戦教育を受けてきました。自分の心で『戦争』を感じる以前に、戦争は悪だ、と教えられてきた。けれども湾岸戦争のとき、私も、私の周囲の友人たちも、戦争はいけないことだけれども、今回の場合は『仕方がないこと』として受け入れてしまっていました。その矛盾にすごく違和感を感じたんです」(……)
「15年前はそれでも、反戦運動に参加したりもしましたが、あまりにあのころは、自分にとっての『戦争』というものを考えないままに戦争反対と唱えていたと思う。今の戦争もそう。『アメリカの言うなりになるな』というのは簡単だけど、今の私たちのこのぬるま湯のような平和な生活がアメリカに依って成り立っているのも確か。そういった自分たちの生活を精算するという視点もなしに、戦争反対、と言えるものだろうか、と思います」(……)
「私は、戦争反対と発言したりするほど戦争について考えているわけじゃない。そんな負い目のようなものを常に持っています。戦争について本気で考えるということは、自分を追い込むことでもあるから。それを常に先延ばししていたい自分がいる。でもそれはただ植え付けられただけの『戦争は悪』という感覚で『戦争反対』と大声をあげている人への私なり意思表示でもあるんです。今自分が立っている位置を振り返ることのない『反戦』は、新しい形の戦争に簡単に取り込まれてしまうのではないかと思うから……」(『ダ・ヴィンチ』March2005,43頁

 これを読んで、ちょっと気になったのです。といってもそれは、彼の主張がおかしいとか、そういうことでは必ずしもない。というか、もっと言えば彼の発言そのものもある意味どうでもいい*1。それより、「ただ戦争反対と大声をあげるだけじゃだめなんだ」という言い方*2をする人、なんだか最近すごく多いなあ、とふと思った、ということなのです。「……という○○もなしに、戦争反戦、と言えるものだろうか」というのもしかり。それが間違っていると言いたいわけでは必ずしもない。まそりゃ「ただ戦争反対と大声をあげるだけじゃだめ」といえばだめですわな。しかしそれにしても、なぜ(私も含めて)「ただ戦争反対と大声をあげるだけじゃだめだ」と言いたくなってしまうのか。というか、これはあくまで私の印象にすぎませんが、「戦争反対と言う声」よりも、「ただ戦争反対と言うだけじゃだめだと言う声」の方が、明らかに大きい、いや、多いような気がする。もちろんフーコー的な言説分析とかなんとかいう話のずーっと手前の誰でも言いそうな話でしかないのですが、どうも、「戦争反対についての言説」の増殖、という現象があるような気がする。とにかく「戦争反対の言説」よりも「戦争反対の言説についての言説」の方が、明らかに多い、というのが、今時の特徴なのだろうな、と思います。とはいえ、「『戦争反対とただ言うだけじゃだめだ』とただ言うだけじゃだめだ」と言ってみてもむなしいし*3

*1:こういう場合取材して記事をまとめた人が発言のどの部分を取り上げるかという問題もかなり大きいでしょうし。

*2:まったくこの通りの表現は、三崎氏はしてないですけどね。念のため。

*3:つまり、「「戦争反対とただ言うだけじゃだめだ」とただ言うだけじゃだめだ」とただ言うだけじゃだめだし