俳優を演じる俳優を演じる俳優……

またテレビの話題。結局、テレビネタだと日記が書きやすいってことかなあ、やっぱり……。
少し前、たまたま、ある実在の家族のうつ病との闘いをドラマ化したものを途中から見た。もちろんいわゆる「感動」ドラマ、という作りなのだが、それほど押し付けがましい感じはなく、むしろ「うつ病」の実態を正確に伝えようとする姿勢が感じられて、好感を持った。いいドラマだったのではないかと思う。
ただこのドラマ、内容とは関係ないところでいろいろ面白いことがあったので、それについて書いてみる。
このドラマは、重度のうつ病にかかった父親とその家族の6年間の苦闘をドラマ化したものである。というわけで、実在の家族を、俳優が演じているのである。ただし、このドラマが、普通の実録ドラマとはちょっと違うのは、ここで演じられている実在の家族、というのが、高嶋忠夫一家という俳優一家だということだ。だから、「うつへの復讐 〜絶望からの復活〜」というこのドラマは、俳優が俳優を演じるドラマ、なのである。*1
ところで、問題は、だれが演じるのか、ということである。俳優一家のドラマなのだから、自分たちで演じるのが一番てっとり早い、とも言える。実際、海外の危機一髪で助かった事故の再現ドラマ、みたいなやつで、本人が本人を演じる、というのもよくあるように思う。また、俳優が自分自身を演じる、というのも、(見てないけど)『マルコビッチの穴』のように、あることはあると思う。
ただ、今回のドラマの場合、本人が演じた場合いろいろとさしさわりがあるような気がするのである。
ひとつには、このような感動ドラマ的内容の場合、本人が演じると、思い出してしまって冷静に演じられない、ということがあると思う。が、感動ドラマを本人が演じるとまずい理由というのは、もう一つある。
たとえば、(読んでないけど)リリー・フランキー著の『東京タワー』というのは、彼の自叙伝であるらしいけど、ドラマ化や映画化されており、その際著者本人の役は、俳優が演じている。たしか映画では、オダギリ・ジョーが演じていたと思うが、ちょっと本人にくらべてかっこよすぎではないか、と思った人は多いのではないか。しかしそもそも、現実を「ドラマ化する」ということが、ある意味ですでに現実を「作品化する」ことであり「かっこよくする」ことなのだから、「かっこよくする」使命を担っている俳優としてのオダギリ氏が、リリー氏をかっこよく演じたとしても、オダギリ氏は自分の仕事をしているだけで特に問題はない。*2
ところが、高嶋一家の現実の物語を感動のドラマ化する場合、例えば高嶋政宏の役を高嶋政宏本人が演じた、としよう。そうすると、「俳優としての高嶋政宏」が、「演じられるモデルとしての高嶋政宏」を本気で演じれば演じるほど、それは、「自分をかっこよく見せる」ということになるわけであり、やっぱり「ちょっとそれはどうなのか」てことになるのではなかろうか。
というわけで、今回は、高嶋一家はそれぞれ別の俳優が演じることとなった。配役は以下の通りである。

高島忠夫松方弘樹
寿美花代:高橋惠子
高嶋政宏別所哲也
高嶋政伸袴田吉彦

この配役、というのが、このドラマを見ているときのえもいわれぬ感じを作り出していたのではないか、と思う。
たとえば、高嶋家を演じる俳優が無名の俳優であったとすれば、そういう「感じ」は出なかったと思う。また逆に、演じられる高嶋一家が、無名の家族であるならば、その場合も違和感はなかったと思う。
ところが、上の配役を見ればわかるように、このドラマの場合、演じられる方も演じる方も、有名度、テレビで見かける度、は、どちらも大体同じぐらいであるように思える。
簡単に言えば、例えば、別所哲也の自叙伝が仮に感動ドラマになったとして(『ドラマ・別所哲也物語』とか)、その役を逆に高嶋政宏がやる、ということもまったくありそうに思うのである。
で、もし仮に今後そういうことがあったとして、そのドラマに、「別所哲也がドラマで高嶋政宏を演じたことを再現するシーン」というのがあったとしよう。そうすると、そのシーンを演じる高嶋政宏は、「『高嶋政宏を演じる別所哲也』を演じる高嶋政宏」ということになる。ややこしい(ていうかもちろんそんなことはありえないけど)。
ところで、今回の場合、本人たちは、俳優としては出演していないが、ドラマの合間に、当時のことを回想して本人が現在コメントを述べるVTRが随所挟まっていて、そういう形では本人も「出演」しているのである。
それだけではなくて、当時本人たちが出演した番組のVTRなども、そのまま挿入されていたりする。
たとえば、高嶋忠夫氏は、一時回復するのだが、そのとき、医者のすすめもあって、リハビリ的に一家で海外旅行に行くことになるのである。この旅行には、テレビカメラも同行し、旅行の記録は番組として放送されたようだ。で、当時放映されたその番組VTRの一部が、今回のドラマの中でちらっと映るのである。
ところが、この旅行中高嶋氏の病状はかえって悪化してしまい、実は旅行中は途中から相当大変だったそうなのである。そして、ドラマでは、番組では放送されなかった「舞台裏」の大変な部分が、再現ドラマ化されていた。
つまり、芸能人一家である高嶋一家の日常、というか「現実」は、もともとテレビ番組化され、いわば「舞台化」されていたのである(その意味で、「一般人」と違って大変な稼業であるとは思う)。ところが、そんな番組の「舞台裏」が、今回またテレビドラマ化され、「舞台化」されたわけだ。この段階で、高嶋家の「現実」は、すでに2重に「舞台化」されている。が、「舞台裏」を「舞台化」した今回のテレビドラマにだって、それはそれで「舞台裏」があるかもしれない。例えば、実は高嶋政宏氏が別所哲也氏の演技に不満で、しかし別所氏もプライドがあるから譲らず、二人の間に激しい確執があった、とか(知らないけど)。そんな「舞台裏」が、『ドラマ・別所哲也物語』の中で将来ドラマ化されることだってありうるではないか。そうなると、高嶋氏の人生は3重に舞台化されることになる。ちなみに、『ドラマ・別所哲也物語』で、別所哲也高嶋政宏が演じたとすると、別所哲也高嶋政宏のケンカのシーンでは、誰かが高嶋政宏を演じなければならなくなる。もしそれを、別所哲也が演じたとすると……。ええと、別所哲也とケンカする高嶋政宏別所哲也が演じて、高嶋政宏とケンカする別所哲也高嶋政宏が演じて……ああ、ややこしい(てそんなドラマが作られることはありえないけど)。

*1:ちなみに、サルトルは「俳優性」というのをしばしば論じていて、それはサルトル哲学の重要なテーマの一つと言っていい。サルトルの戯曲『キーン』は、まさに俳優が俳優を演じることをテーマとした戯曲である。

*2:現実を「かっこよく作品化」するものとして、ドラマ化のほかに、「マンガ化」というのもよく行われる。たしかちょっと前『上戸彩物語』とかいうマンガがあったと思う。上戸彩は俳優ではあるが、マンガ家ではないから別にいいのである。マンガ家がマンガ家をマンガ化(ややこしい)というのはあるが(藤子不二雄の『まんが道』とか)そういう場合、絵的にはわざとかっこ悪く描かれるのが普通である。ことさらかっこよく描く小林よりのりという例もあるが、あれは「わざと」だから成り立つことである。ところがあのマンガの場合途中からどうも本気ぽくなってきたので、そうなると、やっぱり見るものとしては「ちょっとどうなの?」と思うのではないか。