小田嶋氏をめぐる話の続きです。時間がないので簡潔に……。と思ったら超長く……。
NakanishiBさんがおっしゃるように、前回私がとりあげた小田嶋氏の記事トラバ先、すなふきん氏の議論は大変興味深いです。
左翼から右翼へ〜反抗思想の変遷
すなふきん氏は、前回私がとりあげた、小田嶋氏の偉愚庵亭憮録「ウヨ曲折」と、それに反論しているBUNTEN氏のBUNTENのヘタレ日記「サヨ(左様)か?」を取り上げ、双方とも違った興味深い観点を提出しています。すなふきん氏は、小田嶋氏の意見と、BUNTEN氏の反論を次のようにまとめています。
保守的な大人たちへの「反抗の象徴」としての左翼運動がいつしか反転し、今では右翼がかっこいいものとなってしまった。そこには左翼思想を基盤にする戦後民主主義思想が空気のように当たり前(体制化)になってしまった(よって反抗的なのはむしろ右翼になった)という事情があるという小田嶋氏の主張に対して、BUNTEN氏は経済的事情が左翼思想を生んでいたとする見方で、その後の経済成長で貧乏人が減ったことが左翼の衰退の原因だとしている。
その後、すなふきん氏による小田嶋説への異論が提示されています。それは、小田嶋氏の言うような「左翼的思想の体制化」は、何も最近突然始まったことではないのであり、55年体制の革新政党への一定の支持を考えれば、むしろかつて(つまりもう50年前ですよ)の方が顕著だったのではないか、というものです。それはそうだと思います。すなふきん氏も言うように、今はむしろ体制内も含めて全般的に保守化している。そもそも全共闘運動のようなものはそうした戦後民主主義的体制左翼への批判も含んでいたわけであって、昔の左翼はみんな体制右翼への反抗だったといわんばかりの小田嶋説はやや単純化しすぎだと思います。
さてその上で、すなふきん氏は、現在に比べれば相対的に左翼的(が言い過ぎならばリベラル)であった、かつての体制=保守の側についても回想しています。
私が学生だった20年前にはすでにキャンパスから学生運動の熱気はほとんど消えていた。かといって今のように右翼的な言説が飛び交ってるわけでもなかった。ネットが存在しなかった時代なので状況は違うかもしれないが、世論的にも保守的とはいえ、その保守性はよく言えば余裕のある保守性だったような印象があった。
これもまったく同意します。色々な人が言いますが、今のコイズミ、アベ、イシハラなどの、いわば極右的な層は、かつての自民党では主流ではなかった。近年、たとえば後藤田など古参の自民党政治家が、相次いで近年の「右傾化」に警告を発していますが、かつて主流だったハト派的自民が駆逐され、タカ派的自民が完全勝利したのが前回のコイズミ圧勝であるとも言える。
というわけで、かつての左翼は現在思われているよりも体制的だったし、かつての保守(体制)は、現在よりも左翼的だった。つまり、現在の右傾化は、体制となった左翼への反発から生じているのではなく、むしろ保守の変質というか、右派そのものが右傾化している、ということではないのか。その点で小田嶋氏の見立てはマトをはずしている。
* * *
では、現在の、右傾化はいったいどこから生じたのか。つまり、現在の、余裕のないいわば新しい右派、新しい保守はどこから生まれてきたのか。その点を考えるに当たって、すなふきん氏の以下の指摘は重要だと思うのです。
当時反抗的だったのは暴走族やヤンキーといった、昔からの不良タイプだけで、もちろん彼らが日の丸掲げたりして右翼的だったといえばそうなるが、現在のように広範にそうした言説が若者の流行になってしまうような現象はなかった。むしろもっと即物的というか、おしゃれや高級ブランド、女の子と遊んだり享楽的な傾向が強く、新人類と揶揄されたように今よりむしろ個人主義的だったように思う。要するに楽観的で経済的にも精神的にも余裕があった時代と記憶している。(強調引用者)
この新人類*1、というのは、まさしく私の世代なのです(私は1965年、つまり昭和40年生まれ)。私の感覚では、この私の世代こそが、前回私が言った「おハイソなオジサン的右派」の中心をなしているのではないか、と思うのです。
で、これを読んだとき、まっさきに思い出したのが、姜尚中氏の『姜尚中にきいてみた!』(講談社文庫2005)の冒頭に載っている話なのです。*2この本は姜尚中氏のインタビューなのですが、その冒頭で、姜氏が1997年早稲田大学の「人物研究会」というサークルで行った講演会での発言*3が引用されています*4。その中に、非常に興味深い発言がありました。
最近ある新聞のなかに入試社会という連続ものをちょっと見ました。試験社会といったらいいんでしょうか。三才四才の子供に対して三十代の、僕より下の世代がせっせと小学校を、私立学校か何だか知りませんが、そこに入れるためにせっせと塾に通わせる。そのなかの親のあるコメントが、もちろん新聞記事ですからかなり歪曲されてるかもしれませんがこういう発言なわけですねぇ。そんじょそこいらの公園で遊んでいる子供たちと比べると、ここの塾にいっている子供たちとはやはりかなり違う、と。つまり、三才の子供、四才の子供をつかまえて、そんじょそこいらの子供と、この塾に通っている子供とが違うということをアプリオリに言えるこの三十代の、しかも高等教育を受け、そしてかなりの程度インテリジェンスの高い、そして有名な企業に入っており、しかも自分のパートナーも有名な女子大学を出たとおぼしきこのカップルの言っている、この違いというか差別というか、いや、これはかなり平均的ないわゆる中産階級。
これこそが、私の世代(もちろん全員ではありませんが)です*5。つまり、「おしゃれや高級ブランド、女の子と遊んだり享楽的な傾向が強く、新人類と揶揄されたように今よりむしろ個人主義的」だった「若者」のその後なのです。現在実際に裕福であるかどうかは別として、中産階級的感性が染みついてしまっている世代です。現在の「右傾化」を静かに担っているのがこの人々だと思うのです*6。ところで、上記の『姜尚中にきいてみた!』では、インタビュアーの横山氏が、原田武夫氏の『サイレント・クレヴァーズ』(中公新書ラクレ)という本を紹介しています。その著者によると1970年前後生まれ*7の世代が該当するという、「サイレント・クレヴァー」の条件とは、こうだそうです。
1、競争社会での生存能力
2、グローバリゼーションへの適応
3、過去の成功談を理解できる能力
4、プレ・ミドルの立場であること
5、経済的に「余裕」があること
6、日本にこだわりをもっていること
7、「情報力」を持つこと
8、フリー・エージェント志向であること
これを読むとなんだかとてもゲンナリしてきます*8。さて、先の講演で姜尚中氏は続けてこう言っています。
つまり自由主義史観か反自由主義史観かなんていうのはこういう親達にとってはどうでもいいことなんではないんだろうか。彼等にとって一番大切なことはどんな歴史観を教わるかということよりは、子供が入試のテーマとしてそれをこなし、そしていい大学に入りいい会社に入り少しでも差別化ができ、自分より少なくとも上向きのあるステイタスを得ること。そうすると彼等にとってイデオロギーなどどうでもいい、いや少なくともわれわれが目くじらをたてて自由主義史観か反自由主義史観かというような論争を彼および彼女らが聞いたときに、おそらくあくびをしながら、そんなことよりはできるだけ早く自分の子供に試験のテクニックを教え、そして可能な限りいい塾を見つけ、というふうに彼および彼女らは考えるんじゃないだろうか。ここに普通といわれている人々のある意識が露呈しているんじゃないか。
この人々は、例えば、「自由主義史観」ですらない。つまり右派ではないのです。むしろ「反自由主義史観」と「自由主義史観」の間の対立関係を傍観している、それこそ観客にすぎないんじゃないか、と姜氏は言う。
そして彼等が、自分が観客ではなくてそこにある舞台で踊らなければならなくなったときに彼および彼女らはオフィシャルヒストリーといわれているものがそういうものになればそれに右へ習えするんじゃないだろうか。つまり彼等にとって一番大切なことは、その一つの社会のなかでこれがオーソドキシィだといわれてるものにしがみつき、それに寄り添い、そして可能な限り他人との差別化をはかるというところに自分のアイデンティティを確かめあう、こういう構造なんじゃないだろうか。そうしたならば、彼等はおそらく自由主義史観と呼ばれるものの教科書も読んでないだろうし、自由主義史観を批判する本も読まないだろうし、またそれについて論争があるということすらもおそらく知らないかもしれない。知っていたとしても、あれはごく一部の識者の何か訳の分からない不毛な、為にもならないある議論にすぎないと見ているかもしれない。いやおそらく私が思うに、それがかなりの程度の多数を占めているんじゃないだろうか。
というわけで、姜尚中氏も言うように、自由主義史観の側も、さらには、ゴリゴリの任侠系右翼*9なんかは特に、実はジレンマに立たされているわけです。自分たちがクレヴァーだと思っているこののれんに腕押し的連中は、いわゆる右翼も馬鹿にしているでしょう。が、だから左派は安心していい、とはもちろんならない。
この無関心と考えられるこの膨大な数の人々はその自由主義史観がオフィシャルヒストリーになりそれが教科書に採択され、国全体が大体そういうものをオフィシャルと考えるならばおそらくそれに諾諾と従うでしょう。
だとすると、たとえば自由主義史観に対抗する言論を「私たち」がどのように紡いでいけばいいのか、というのは、姜尚中氏も言うように、非常に難しいのです。やはり「新しい言葉」を紡ぎだしていかなければならない。従来的な左翼的言説ではだめなのです。つまり、55年ハト派言説でもだめだし、全共闘的左派言説でもだめです。「だめ」というのは内容がだめという意味ではなく、内容的にはまったく正しいんだけれど感性のレベルではじかれてしまう、ということです。そうしたものは、もはや「オジイサン」の言葉なのです。老人党と入れ替え可能な九条の会では、残念ながら、もと新人類の若者である「オジサン」に太刀打ちすることはできない*10。ではそれはどのような言葉なのか。難しい。しかも、さらなる困難があるのです。それは、すなふきん氏のBUNTEN氏批判に関わります。
BUNTEN氏のように貧乏が左翼の原因という発想も一般化できないと思うのは、今現在フリーターやニート問題で貧乏な若者が増えているのに、そうした層にこそむしろ右翼的言説が広がっているように感じるからだ。これは逆ではないかと。さらに戦前の昭和恐慌期以降やナチス台頭の社会状況を回顧すれば、貧乏が必ずしも左翼思想の温床になるとは限らず、右翼=排外主義的ナショナリズムの温床になる可能性も高いといえる。
ネットで吹き上がっている「ワカモノ」的、反抗的ウヨ、はむしろこっちの方ですよね。ということは、現在の状況というのは、「オジイサン的」左派(とハト派保守)が、静かな「オジサン的」保守とうるさい「ワカモノ的」右派*11のあわせ技で押しまくられて、風前の灯火、という所でしょうか。
でも、正直言って、私は、クレヴァーだかなんだかしらないが、煮ても焼いても食えない元新人類のオジサン連中(つまり自分も含む同世代が)ほんとに苦手です。宮台氏なんかは、そういうサイレント・クレヴァー的都市型保守*12を「都市型リベラル」に転換するのだ、というようなことを言うのでしょうが、非常に困難なことであるように思います。むしろ今こそ、「ドント・トラスト・オーバー・サーティー」なんじゃないでしょうか。とにかく、「新しい言葉」は、30代以上の若年寄じゃなくて、10代、20代の本当の意味のワカモノ的感性からしか出てこないんではないか、とすら思うのです。というわけで周り回って小田嶋説にもどりますが、小田嶋さんは、「筑紫的イイコちゃん左翼が体制的となってしまっている現在ではワカモノは右傾化するのも当然で、愛国教育が復活しないと左翼復活は難しいのではないか」というのですが、そうじゃないんじゃないか。「愛国教育」は、小田嶋氏が言うような戦前的愛国教育*13とはまったく違ったオジュケン的なヌエ的なものとしてもうすでに復活している、というか、いつの間にか静かに主流となっているのです。そして小田嶋さんのにっくき筑紫的左翼は、実はもうとっくの昔に主流から脱落して老化しているのです。ということは、逆に言うと左翼復活があるとしたらまさに「今」なのではないでしょうか。
私は、30代以上のオジサンがさんざん「もう古い」と馬鹿にしてきたサルトル(生きていれば100歳)の言葉が、今むしろすごく若いものに感じられるのですが、あとは、id:rir6くんとか、トニオくんとか、ホンモノのワカモノに注目することにします。*14
*1:いうまでもなくこの言葉と筑紫哲也の結びつきは非常に象徴的です。
*2:この本は、id:miyutomo2さんも取り上げていて、その時私もコメントしようと思っていたのですが、しそびれていました。http://d.hatena.ne.jp/miyutomo2/20051003#p1
*3:この発言はネット上で読めるのですが、当のサイトは「直接のリンク禁止」を非常にきびしくうたっているので、やめておきます。モヒカンではないので。
*5:姜尚中氏自身は、「クリシェといえばクリシェの階層像なんだけどね」とも言ってますが。p16
*6:さらに姜尚中氏は、こうした右派を「都市型ポピュリズム」と規定し、「非常に流動かした都市住民が、エゴセントリックな形で露骨に自分たちの利己的な要求を増幅させてくれるものになびこうとしている」と言っている。そこでは、田舎的、田中角栄的なもの(つまりハト派的自民)は忌避される。
*7:横山氏によると昭和四十年前後生まれ
*8:ついでに余計なことを書くと、モヒカン的な人の中にこういう臭いを感じることがけっこうあります。
*9:オジイサン的右翼と言ってもいい。
*10:というわけで、内田氏の「オジサン的」というのは、最初読んだ時は、旧き良きハト派的保守の感性なのかな、という漠然とした印象を持ったのですが、だとするとそれは「オジイサン的」と言った方がいい。ところが、最近の発言を読むと特にですが、内田氏は、どうも「サイレント・クレヴァー」的な感性に親和的であるように見えるのです。そういう意味では、オジサン的でいいのかもしれない。
*11:世代的な表現を使いましたが、もちろんどの世代にもこれらそれぞれの感性を持った人はいると思いますので、「的」としておきます。
*13:いや、これ自体が実はフィクションなのではないか、とも思えます。私の父親は戦中のまさに「愛国教育」を受けた世代ですが、意外と牧歌的だった、というようなことを言ってました。
*14:ワカモノにすりよるオジサンもかっこわるいですがね。しかし、ここでいっときたいのですが、rir6氏を馬鹿にしたり冷笑しているクレヴァーのつもりのクレヴァカなオジサン連中は、本当に醜いというか、恥ずかしいですね。ま、ほっとくしかないですが。