第2章愛国心について その3

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ローマの愛国心


古代ローマの詩人ホラティウスは「すべては、党派ではなく国家のために」と言ったそうです。しかし、このようなスローガンが通用したのは、古代ローマ人たちに、党派を利用する知恵がなかったからでした。そして彼らが国家のために戦ったのは、国家があるからではなく、敵国や敵国人があったからであり、「敵国や敵国人を憎むべし」という迷信があったからなのです。

ローマの貧民

現在イラクでは、アメリカの多くの貧しい若者たちが、少数の金持ちのために「勇敢に」戦っています。それと同じように、古代ローマの貧しい多数の農民たちも、少数の富裕者たちとともに、あるいは富裕者たちに従って、国家のための戦争に行ったのだと思います。そして、彼らは、危険を冒すことを顧みず、勇猛果敢に敵と戦ったのだと思います。彼らの忠誠心というものは、本当にすばらしいものだったでしょう。しかし、戦争が味方の勝利に終わり、彼ら農民たちが幸いにも無事帰国できる時、というのは、つまり、彼らが、従軍の間に背負った債務のために、直ちに奴隷の身に落ちる時でもあったのです。ごらんなさい、戦争の間、金持ちの田畑は常に使用人や奴隷の労働で耕されていたのですが、貧者の田畑は荒れ果てるがままになるしかありませんでした。こうして債務が生じ、そのため彼は奴隷として自らを売るのです。いったい誰のせいでしょう?
彼ら貧者はローマの敵国や敵国人を憎悪していました。しかし、敵国人が彼らに対して与える危害があるとしても、それは、彼の同胞である富裕者が彼らに与える危害以上になることは決してありません。彼らは敵国人によって自由を奪われ、財産を奪われるかもしれません。しかし、彼らは同胞である富裕者によって、すでに自由を奪われ、財産を奪われていたのではありませんか? 彼らはそのことに思い至らないのです。

なんというアホ

金持ちが戦争をすると、彼の富はますます増え、奴隷や家来がますます増えます。しかし、貧乏人には何の得にもならないのです。彼らはただ「国家のために戦った」と言えるだけです。彼らは国家のために戦って奴隷の境遇に陥ったのに、なおも、「敵をやっつけた」という過去の栄光を思い出して、満足しているのです。ああ、なんとアホなのでしょうか。古代ローマ愛国心とは、実はこんなものなのです。

古代ギリシアの奴隷

古代ギリシアの「へイロタイ(ヘロット)」と呼ばれた奴隷をごらんなさい。彼らは、有事の際には兵士となり、平時には奴隷でした。そして彼らは、健康すぎたり、人口が増えすぎたりしたときは、常にその主人によって殺されました。しかも、彼らはきわめて忠誠心に富み、主人のためにとても勇敢に戦ったのです。彼らは、その矛先を逆に、つまり主人の方に向けて自由を得ようとなどとは、一度も思わなかったのです。

迷信的愛国心

どうして彼らはそんな風だったのでしょうか。それは、彼らが、外国人、つまり敵国人を憎悪しやっつけることを、最高の名誉であり、栄光であると信じていたからです。そして、それが虚栄であることを知らなかったからです。ああ、なんという迷信……。愛国心にたいする彼らの迷信ぶりは、砂糖粒を薬だと思って飲んでいるホメオパシー信者たち以上です*1。そして、愛国心が含んでいる害毒もまた、ニセ科学以上のものなのです。

愛憎の両念

しかし、彼らが敵国人をそんなにも激しく憎悪するのは、不思議なことではありません。欠陥のある人生、野獣に近い人生においては、博愛の精神を持つことは難しいのです。原始以来、愛と憎しみという二つのものは、常に一本の縄のように絡み合い、鎖の輪のように強くつながっています。野生動物をごらんなさい。彼らは、仲間どうし憎しみあい、食らいあっています。しかも、少しでも未知のものに出会えば、すぐにパニックに陥り、恐怖心はすぐに憎しみとなり、憎しみはすぐにうなり声となり、攻撃となり、さっきまで食らいあっていた同類は、今度は協力してその共通の敵と戦いはじめます。共通の敵と対決するとき、彼らは仲間どうしで親睦を深めるのです。彼ら野獣は実に愛国心があるではないですか。未開の地における古代人の生活はまさにこれと同じようなものだったのです。
未開人は、仲間どうしで協力して、自然と戦い、異種族と戦いました。彼らは愛国心というものをもっています。しかし忘れてはいけません。彼らの団結や親睦や同情というのは、共通の敵を持っていることからこそ生まれるのであり、敵に対する憎悪の反動でしかないのです。同じ病気にかかってはじめてお互いを相憐れんでいるのです。

好戦の心は動物的本能

したがって、愛国心というものは、要するに、外国人をやっつけることを栄誉とする、好戦の心です。好戦の心とはつまり動物的本能です。そうして、この動物的本能こそが、好戦的愛国心なのです。これはまさにブッダやイエスが否定したものであり、文明の理想や目的と相容れないものではないでしょうか?
しかも、悲しいことに、世界の人民はいまだにこの動物的本能の競争原理にしたがって19世紀と20世紀をすごし、さらに相も変らぬ状況のまま21世紀に向かおうとしているのです。

適者生存の法則

社会が、適者生存の法則にしたがって、だんだんと進化し発達し、その統一の範囲と交通の範囲が拡大するにつれ、公共の敵とする異種族、異部族もだんだんと減って行き、彼らの憎悪の対象がいなくなってしまいました。憎悪の対象がいないと、親睦し協力する目的もまたなくなってしまいます。ここにおいて、彼らの、一国、一社会、一部族を愛する心は、ただ、一身、一家、一党を愛する心に変わるのです。かつての、種族間、部族間における野蛮な好戦的本能は、個人間の争いとなり、仲間内での軋轢となり、階級間の闘争となりました。純潔な理想と高尚な道徳が未熟で、動物的本能を取り除くことがいまだにできない間は、世界の人民は、敵を持たざるをえず、憎悪せざるをえず、戦争せざるをえないのです。そうして、これを「愛国心」と名づけ、名誉の行いだと言うのです。

自由競争と、動物的本能の挑発

ああ、欧米の19世紀、20世紀の文明よ。そこでは一面において、激烈な自由競争が人の心をますます冷酷で無情なものにし、また一面においては、高尚な正義の理想とか信仰というものが世界を席巻しました。わが文明の前途を思うとまったくぞっとします。こうして、姑息な政治家や、名声を好む電波芸者や、一攫千金を追い求める資本家は、こう絶叫します。「平和ボケの日本人よ、目を覚ませ!大いなる危機が迫っているぞ!」「国民は個人間の争いをやめて、国家のために協力を!」と。彼らは、個人間での憎悪の心を外敵に転向させて、そのことでおのおのが得をしようとしているのです。そうして、これに応じないものがあると「非愛国者」「国賊」と非難するのです。お分かりですか? 帝国主義の流行は、実はこうしたやり方ではじまっているのです。つまり、帝国主義とは、国民の愛国心、言い換えれば動物的本能の挑発によって出現したのです。
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*1:原文は、「腐った水を「神水」と言って飲んでいる天理教徒たち」