第2章 愛国心について その4

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外国人への憎悪

自分を愛しなさい(つまり他人を憎みなさい)。同郷の人を愛しなさい(つまり他郷の人を憎みなさい)。神の国日本を愛しなさい(つまり中国や韓国を憎みなさい)……。愛すべき人のために憎むべき人をやっつける。これを名づけて「愛国心」と言います。

野心を達成する道具

そうだとすれば、つまり愛国主義とは、哀れむべき迷信ではないでしょうか? 迷信ではないというなら好戦の心であり、好戦の心でないというなら虚栄にみちた広告であり、商品です。そうして、この愛国主義は、専制政治家によって、自分の名誉と野心を達成するための手段として常に利用されてきたのです。
「それは古代のギリシアやローマでの話しだ」とおっしゃるかもしれませんが、そんなことはありません。愛国主義は、古代や中世よりも近代においてこそはなはだしく流行し、利用されたのです。

明治時代の愛国心


歴史教科諸問題、国旗国家法、教育基本法改正、等々、最近の日本の「愛国心」をめぐる状況については、みなさんもよくご存知でしょうから説明をはぶきます。ここでは、100年以上前のことをお話しましょう。1894(明治27)年9月、日清戦争時の黄海での海戦の際、軍艦高千穂のマストにどこからともなく一羽の鷹が飛んできました。その鷹は捕らえられ、明治天皇に献上されました。この鷹は、神の使いの霊鷹(れいよう)とされ、高千穂と名づけられて宮内庁で飼育されました。当時、森田思軒という翻訳家・新聞記者が、このことを批判し、「その鷹は霊鷹でもなんでもなくて単なる鷹でしょう」というようなことを書きました。すると、世間の人々は彼を「国賊」といっていっせいに叩きました。また同じころ、久米邦武という歴史家は、1891(明治24)年、「神道というのは天を祭る古い習俗にすぎない」というようなことを述べた論文を発表したところ、神道家たちから批判され、東京帝国大学の教授の職をクビになりました(久米邦武事件)。また、第2次伊藤博文内閣の文部大臣だった西園寺公望は、1895年、高等師範学校の卒業式などで「従来の忠臣教育を改めて、世界に通じる教育を行うべき」というような訓示を行ったところ、問題となって、辞任させられそうになりました。第一高等中学校の嘱託教員で、クリスチャンだった内村鑑三も、1891年、始業式で教育勅語の礼拝を拒んだところ、クビになりました(不敬事件)。尾崎行雄は、1898年8月、大隈重信内閣の文部大臣時代、帝国教育会で拝金主義の風潮を批判し「仮に共和政治が行われれば、三井、三菱は大統領候補になるだろう」と述べたのですが、「共和」という言葉を使っただけで不敬として攻撃され、大臣を辞任させられました(共和演説事件)。彼らはみな、「不敬」とか「非愛国者」といって非難されました。これらはみな、明治時代における日本国民の愛国心の現われだったのです。
国民の愛国心というものは、それに逆らう者がいると、人の口を封じ、人の足を引っ張り、人の思想すらも束縛し、人の信仰にすら干渉します。歴史を論じることを禁止し、聖書を研究することを妨害し、すべての科学を粉砕することさえできるのです。正しい文明はそうしたことを恥とします。しかし、愛国心はむしろそれを栄誉であり、手柄であるとするのです。

イギリスの愛国心

日本の愛国心だけがそうなのではありません。イギリスは近代において、自由の国だ、博愛の国だ、平和の国だ、とさかんに言われています。そんなイギリスですらも、かつてその愛国心が激しく燃え上がったとき、自由を唱えた者、改革を請願した者、普通選挙を主張した者は、みな反逆罪に問われ、「国賊」と責められたのです。

英仏戦争

イギリス人の愛国心が大いに高まった事例として、対仏同盟の時代があげられるでしょう。フランス革命後、ヨーロッパ諸国は7回に渡って対仏同盟を結成し、フランスを攻撃しました。ルイ16世の処刑後の1793年以来、多少の断絶はありましたが、イギリスもこれに参加し、それは1815年ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破るまで続いたのです。これはたかだか200年前でそんなに遠い昔のことではないのですが、それと同様、当時のイギリス人の思想も、現在のものとさほど遠く隔たっているわけではありません。彼らの愛国心は、今日の愛国主義と、その流行の事情と方法において、それほど異なったところはないのです。

いわゆる挙国一致


「フランスとの戦争」。ただそれだけ、ただその言葉があるだけです。この戦争の原因は何なのか、とか、その結果がどうなるかを論じたり、その利害は、是非はどうなのか、などと言ってはなりません。そんなことを言えば必ず「非愛国者」とされて非難されるでしょう。改革の精神とか、抗争心とか、批評精神とかいうものは一時まったく休止して、いや休止させられて、国内の政治闘争はほとんど消滅してしまいました。詩人・批評家・哲学者だったコールリッジという人は、戦争がはじまったときはこれを非難していたにもかかわらず、最後には、「戦争が国民を一致結合させたことを神に感謝する」とか言いはじめる始末です。そして、イギリス自由党の政治家だったフォックスという議員ただ一人が、フランス革命と平和と自由の大義を支持し、対仏戦争に反対したのですが、議会の大勢を変えることはできないと見て議場を退席しました。そのようなことはありましたが、にもかかわらず議会では党派に分かれた討論のようなものは一切なされませんでした。ああ、当時のイギリスはまさに挙国一致でした。わが日本の政治家策士によってしきりに叫ばれた「挙国一致」、ローマ詩人ホラティウスが言った「すべては国家のために」が、真っ盛りだったのです。
しかし、考えてみてください。当時のイギリス国民の心のうちに、どんな理想が、どんな道義が、どんな「国家」があったか。
当時のイギリス国民、狂ったイギリス国民の中にあったのは、ただフランスに対する憎悪だけでした。革命に対する憎悪だけでした。ナポレオンに対する憎悪だけでした。革命的精神や、フランス人の理想に少しでも関連した思想があれば、彼らはそれを嫌うだけではなく、競って馬鹿にし、馬鹿にするだけではなく、群がってこれを攻撃し、処罰することに全力を傾けたのです。

罪悪の最高潮

ここで、次のことを知る必要があります。外国に対する愛国主義が最高潮に達する時とは、すなわち国内における罪悪が最高潮に達する時であるということ、そして、彼ら愛国狂たちが戦争の間大いに発揮した愛国心が、戦後にいったいどういう状況を生み出すかということを。

戦後のイギリス

対仏同盟戦争後のイギリスにおいては、フランスに対する憎悪の熱狂がやや冷却してくると共に、軍事費の支出が低下しました。また、戦争中の工業界の混乱によって生じていた大陸諸国のイギリスへの需要も低下しました。それによって、イギリスの工業および農業は、突如として一大不景気に教われました。次にやってくるのは、大多数の下層人民の窮乏であり飢餓でした。このとき、富豪資本家たちは、果たして一点の愛国心をまだ持っていたでしょうか? 一片の慈愛、共感の念をまだ持っていたでしょうか? 挙国一致の協力の心、親睦の心をまだ持っていたでしょうか? ところが、彼らは、その同胞である人民が窮乏と飢餓のどん底に陥るのを、まるで仇敵を見るように、冷たく見ていただけでした。彼らは、フランス革命やナポレオンを憎悪するよりもはるかに深く、下層の貧民を憎悪していたのです。

ピータルー

ピータールー事件に至っては、そのことを考えるとはらわたが煮えくり返るほどです。ナポレオンの軍をワーテルローで打ち破ってから間もないころ、議会改革と穀物法の廃止を要求してマンチェスターのセント・ピーター広場に集まっていた多数の労働者を、騎馬警官隊が蹂躙し虐殺したのです。当時、「ワーテルロー(ウォータールー)Waterloo の戦い」になぞらえて「ピータールー Peterloo の虐殺」と皮肉られた事件です。ワーテルローで敵軍を破った愛国者たちは、今や一転してピータルーでその同胞を虐殺しました。愛国心というものは真にその同胞を愛する心でしょうか? 一致した愛国心、結合した愛国心といわれるものは、ひとたび戦争終われば、国家国民に対してどんな利益を与えるでしょうか。敵国人の首を跳ね飛ばした鋭い刃は、すぐに、同胞の血をなめようとするのです。

うそっぱちだ

コールリッジは、戦争のために、国民の一致を神に感謝しました。しかし、ここに至って、「一致」などというものはいったいどこにあるでしょうか。憎悪の心は憎悪しか生みません。敵国を憎む心は、同国人を憎む動物的本性しか生みません。ワーテルローの精神はピータールーの精神しか生みません。愛国心による結合などというものはうそっぱちです。
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