今日は、id:kmizusawaさんの「「理解」するのも「興味を持つ」のも「参加」するのもヒマ人の娯楽」が頭から離れず、ずっと考えていました。
勉強が好きな人やその案件に問題意識や興味を持ってる人にとってはなんでもない、もしくは必要だと感じられる知識の収集や興味の持続や「考える」ことが、「わかりたくない」人にとっては「もうたくさん」なことなのではないだろうか。すべての人がそういうことに興味を持てるだけの知識や情報や教養やモチベーションやキャパシティを得られるわけでも、学習のための時間や機会や気持ちの余裕を得られるわけでもない。興味の向きとか立ち位置とかもぜんぜん違う。共謀罪や教育基本法の「改正」は大変なことだが、それよりもバイトのシフトに穴を空けないほうがとりあえず緊急的な大問題だという人もいるだろうし、とにかく疲れて休日はひたすら寝ていたいという人だっている。デモに行かない=政治意識がない、という捉え方があるようだが、政治意識を持つヒマもない体力もない人も大勢いるんじゃなかろうか。
本を読まない、字を読めない、基本的なことも知らない人にしても、それはおそらく彼らの普段の生活にはそれは必要ないと判断されているからだろうし(将来困るなんてことは知ったこっちゃねえ)、必要ないと判断したものまで習得しようと思えるほど彼ら彼女らは「ヒマじゃない」。ヒマそうに見えても疲れてたりとか。これは自分も含めてのことだが、そのジャンルのことがまさに仕事である場合は別として、政治的なことに興味を持ったり学問に興味を持ったり趣味に打ち込んだりブログやったり読書したり…している人、出来てる人は、皆ヒマ人だよ、体力あるよ、端的に言って。主観的には忙しかろうが、それらのことをやっている時間がちょっとでもある分、それがない人よりはヒマ人。
ヒマ人がヒマ人の言葉で何を言ってもヒマじゃない人には届かないのではないだろうか。ほんとに興味を持ってほしい、参加してほしいと思うのなら、ヒマじゃない人に理解や参加を求めるよりもヒマ人のほうが彼らの忙しさを緩和軽減する努力をしたり手を貸したりすべきだと思う。
私の書いたものを直接対象として書かれたものではないのかもしれませんが、かなりいろいろなものを突きつけられたように(勝手に)感じたので、返答させていただきたいと思います。
私の記事について
まず、私の先日の記事(日本のデモ)は、「政治に興味をもってほしい」とか「デモに参加してほしい」というような、いわば押し付けがましいものにやはり読めたのかなあ、と思いました。そのような文章にしたくない、という気持ちはあったのですが、やはりどこかで、デモが絶滅の危機にあることを嘆いているような口調になってしまったかもしれない(もちろんデモが絶滅しそうなことを寿ごうという気にはどうしたってなれないわけですが)。しかし、私の文章が、デモに行かない人に対してほとんど届かないだろう、ということ、そして、仮に届いたとしても、そうした人を参加「させる」という「効果」はまったくもたないだろう、ということはわかっていたつもりです。
デモやる人はヒマか?
次に、こちらの方が重要だと思うのですが、「デモに行く(政治に関心を持つ)人がヒマ人で、デモに行かない人がヒマじゃない人」という事に関して。これは、ちょっと違うのではないか、と思います。私が個人的に見知っている人々に限ってみても、デモに行ったり、なんらかの「運動」にかかわっている人の中には、「ヒマな人」どころか、平均以上に忙しく、厳しい生活を送っていながら、それでも、ぎりぎりの生活の中から時間を割いて「運動」にかかわり、支えている、という人が大勢います。政治なんかやれるのは、デモなんかやってるのは、いいご身分だ、しょせんヒマ人のお遊びだ、というのは、あんまりな偏見だと思います(もちろんそうした偏見は世にまかり通っているわけで、そう思ってしまうのも仕方ないとは思うのですが)。ま、私の場合は、文句なくヒマ人であり、しかもかったるいからデモに行くのやめた、ていうような人間です。しかし、私は、運動をやっている人から、「お前はなぜヒマなのに参加しないのだ!けしからん!」などと批判されたことは、一度もありません*1。
しかし、デモや運動が嫌い、とか、嫌いになった、という人の中には、「運動やっている人は『お前はなぜヒマなのに参加しないのだ!』という風に言うから嫌だ」とか「そう感じさせるから嫌だ」と言う人がよくいます。
つまり、「運動」をやっている人は、両側から批判されるのですね。「運動とは、ヒマな人を糾弾するような、押し付けがましいものだ」と言われるかと思えば、「運動なんてやれるのは、結局ヒマ人なんだ」と言われることもある。
勉強しないと政治に興味をもてないのか?
さて、kmizusawaさんの文章には「政治にかかわるためには、いろいろ勉強しなくてはいけない、難しいことを知らなくてはいけない」というイメージが描かれています。こうしたイメージは非常に典型的なので、そう思われるのもしかたないと思います。何か、「政治に興味がある」人は、いつも難しい言葉で議論などをしていて、デモかなんかに、あまり「勉強してない」人が行くと、「理論武装」したような人から、「勉強不足」「学習不足」を糾弾されるのではないか、というような恐怖。それが、政治から、運動から人を遠ざけるのだ、としばしばいわれます。
しかし、これはちょっと違うと思うのです。そのような、参加するために勉強を条件とする政治運動が実際にあった、ないしあるとしたら、それはそうした運動がおかしい。実際には、政治に興味を持つために、「勉強」する必要なんて、どこにもないわけで、むしろ、「誰が考えてもおかしい」という直感とか、感性とか、常識の方が、本来、政治に興味をもつことの出発点ではないか、と思います。
ところが、これはまた、逆側から非難、冷笑、揶揄されることもあります。「デモにいったりするような人間は、幼稚な感情に動かされているだけで、本当に賢い人間は、あんな風に騒いだりしないもんだよ」とかね。「昔はボクも、難しい政治用語とかを振り回してみたりして、幼稚な議論とかしたもんだけど、若気の至りだったよ」なんていう人も結構いるわけです。
サヨクは本当に難しい語彙を使っているのか?
ちょっと前後するのですが
市民運動的なことを推進する人が敬遠されるのは、サヨク的なことがかっこ悪いとか怖いとか運動の重要性や主張の中身に疑問があるとかいうのもあるだろうけど、その人たちの「語彙」にも原因があるんじゃないかなあと思うことがある。そういう運動やってる人には当たり前の概念や知識が他の人には必ずしも共有されてないのに、共有されて(て)当然という前提で語っちゃうから、そこの時点で意味不明というか、偉そうというか…
正直いって、私のこのブログでの文章も、「他の人には必ずしも共有されてない」概念や知識を、「共有されて(て)当然という前提で」語っているような、「意味不明」で「偉そう」なものが結構あるわけです。それを考えると、かなり、なんというか、へこんでしまうのですが、しかし、説明はしづらいのですが、そうなってしまうやむにやまれぬ事情、というか、私情というものがある……。ただ、そのことについては簡単にはかけないので、後で書きます。しかしいずれにせよ、私や、一部サヨクの文章が、内輪受け的なもの、あるいは、傲慢にも理解するための多大なエネルギーを読者に要求するもの、であったとしても、「サヨク的なもの」とか、あるいは「政治的なもの」のすべてがそのようなものであるわけではない。
たとえば、サヨクの語彙が難解であるのに対して、コイズミの言葉は「わかりやすい」。だからその段階で負けている、とそのようにもよく言われますね。しかしそうですかね。「市民運動」とか「サヨク」の言葉というのは、「プロレタリア階級がどうの」とか「マルチチュードがどうの」とか、「溶融集団がどうの」とかいう用語が飛び交う、というイメージがあるのかもしれません。しかし、それは、一部ですよね。むしろ、いわゆる「市民運動」や「社民党」や「共産党」の言葉は、ほとんどが非常にわかりやすいように思います。「話し合っただけで逮捕されるような共謀罪には反対」とか、「教育基本法に愛国心を入れるのは反対」とか、「憲法改正には反対」とか。
むしろ、コイズミらの言葉の方が、「意味不明」で「支離滅裂」ではないでしょうか。「人生いろいろ、会社もいろいろ」とか。つまり、コイズミの言葉は、「わかりやすい」のではなく、「わかりやすいといわれている」だけのような気がします。
それに、必ずしも共有されてないのに、共有されて(て)当然という前提で語っているのは、(一部)サヨクだけではないですよね。週刊誌の見出しには「エビちゃんOL」とか、「ギャルサー」とか、人によってはほとんど「意味不明」な語彙が飛び交っているわけです。
と、ここまで書いて、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060428/1146248997を読んだのですが
例えば『情況』周辺とかなら、そうかも知れないが、私が「キモいくらい」「わかりやすすぎる」といった所謂左翼ど真ん中の言説というのは、そこにはポスト構造主義は勿論のこと、フランクフルト学派だって存在しないような世界である。それが何故流行らないのかはわからない。
ということですね。
さて、もうすこし、書きたいこともあるのですが、さすがにヒマな私も(笑)疲れてきたし、長くなりすぎたので、明日(以降)にします。
*1:そんなこと言う人は、少なくとも運動をひろげようと思っている人ならまずいないと思いますが