異常なし

 8年前の今日、2014年3月30日、東日本入国管理センター(牛久)でカメルーン人男性が死亡しました。昨日書いたように、前日の3月29日にも、同じ東日本入国管理センターでイラン人男性が死亡しています。二日連続で死者が出るという異常事態でした。しかし、これまで書いてきたことからもわかるように、入管では、異常事態が常態化しているのです。
 この事件については、国賠訴訟が提起されていますが、先日、3月18日に結審しています。判決期日は未定とのことです。この事件については、以前紹介したCALL4(公共訴訟についての情報・物語を発信し、寄付などを通じて訴訟に関われる場を提供するサイト)で、詳しい情報を知ることができます。
https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000041
また同サイトでは、弁護団団長の児玉晃一弁護士がこの事件について詳しく語っています。
https://www.call4.jp/column/?p=417
https://www.call4.jp/story/?p=33
 この男性(Wさん、当時43歳)は、2013年10月に成田空港に到着し、そのまま入管に収容されています。11月には入管の中での診療で糖尿病を患っていることが判明しています。年が明けてから体調が悪化し、2月には胸痛、3月には両足の痛みを訴え、3月16日診療を求める申出書が提出されています(被収容者が診療を受けるときには申し出書を出さなくてはならず出しても長期間待たされることが常態化しています)。同室に収容されていた被収容者たちもWさんを心配して早く診察を受けさせてくれと職員に懇願していたようです。
 3月27日午前、Wさんは入管職員に対して「気分が悪くて立つことができない」と訴えました。このときWさんの容態を心配した被収容者十数名が「Wさんを早く医者に診せろ」と言って、ホールに留まって帰室を拒否したそうです(入管の被収容者は短時間の「フリータイム」以外は居室を出ることを許されていません)。正午近くになって、Wさんは別室(個室)に移されました。このときWさんはすでに自力で歩くことができない状態でした。帰室を拒否していた仲間の被収容者たちはこのとき帰室させらたそうです。そして、個室では、監視カメラによるWさんの「動静監視」がはじまりました。この時撮影された監視カメラの映像が、裁判の過程で開示されました。それによると、3月29日夜19時ごろからWさんは呻き声を上げ始め、「I'm dying!I'm dying!」と叫ぶ様子、ベッドから落ちて床を転げ回りながら苦しむ様子が映像に記録されていました。しかしこの状態を「監視」していたはずの入管の記録(動静日誌)には「異常なし」と書かれていたのです。こちら(児玉弁護士のnote)https://note.com/koichi_kodama/n/n9e5b7aef71a5 に現物のコピーが掲載されていますが、異常の有無欄に「有」とあるのはたった1箇所で、声については言及ありません。児玉弁護士によると、この日誌を書いていたのは入管が委託業務している警備会社のガードマンであり、国家公務員である入管職員は監視ビデオを観ていなかったのではないか、ということです。入管に面会に行くと、収容に関わる実に多くの現場業務を民間のガードマンたちが行っていることが分かります。彼らの労働条件は公務員の職員に比べるとはるかに劣っているはずです。もちろんだからこの対応が仕方なかったということではありませんが、構造的な問題があるということです。児玉弁護士のnoteには入管の内部調査の最終報告書も掲載されていますが、そこには「I'm dying!」が一言も書かれていません。児玉弁護士がおっしゃるように「これで入管内部の調査を信じろと言われても、無理」です。また、昨日書いたように、牛久入管では、3月28日夜イラン人男性が倒れ、29日3時ごろ病院で死亡が確認されています。苦しんでいるWさんの動静日誌に「異常なし」と書かれていた29日夜というのは、それからわずか数時間しかたっていないのです。
 翌30日未明には「0:35 床をズボン1枚で転げ回っている」「2:30 床にハーフパンツ1枚で横向きになっている」等と動静日記に書かれていますが(異常の有無欄は「無し」になっています)それでも救急車が呼ばれることはなく、午前3時ころからほとんど動かない状態になったそうです。午前7時2分に入室した職員が心肺停止状態にあるのに気付き、ようやく救急車が呼ばれますが、午前8時7分病院で死亡が確認されました。このとき血糖値は正常な基準の6~9倍にまではね上がっていたとのことです。
 国賠訴訟で、遺族は「男性の容態が悪化した後にも、施設の職員は医師に報告したり救急搬送をしたりせず、注意義務を怠った」と主張したのですが、入管側は、「職員はカメラを通じて動静を確認し、翌朝には救急搬送して『適切な措置をとった』ため、注意義務に違反していない」と反論している、とのことです。誰が見ても「異常しかない」状態を「異常なし」と記録し放置していたこと、それを「適切な措置」だったと主張すること…何もかもが「異常」としか言えません。何か奇妙な世界に迷い込んだような感覚に襲われますが、これが「日本」なのです。
 この事件が2014年の3月30日。そしてこの事件からわずか8ヶ月後の2014年11月には、スリランカ人が東京入管(品川)で医療放置によっって死亡、その2年4ヶ月後の2017年3月には、再び東日本入管センターで、先日書いたように「痛い痛い」と叫ぶベトナム人が1週間も放置されくも膜下出血で死亡、その1年後の2018年4月には東日本センターでインド人が自殺、その1年2ヶ月後の2019年6月には大村入管でナイジェリア人が餓死、その1年4ヶ月後の2020年10月に名古屋入管でインドネシア人が死亡、その5ヶ月後に、名古屋入管でウィシュマさんが死亡するのです。……繰り返しますが、これが「日本」です。

あること

 8年前の今日、2014年3月29日、東日本入国管理センター(牛久)でイラン人男性が死亡しました。そして、8年前の明日、2014年3月30日にも、同じ東日本入国管理センターでカメルーン人男性が死亡しています。2014年3月には、牛久入管センターで二日連続で死者が出ているのです。異常な事態であるとしか言えませんが、センターは二人の死亡事件の直後、司法解剖も終わっておらず死因の特定もできていない段階で、またもや「現時点で処遇について問題は無かった」とコメントしています。日本の報道は刑事事件などで逮捕された人をその段階で実名報道をするなど問題がありますが、一方で公権力に対しては、事件直後に「問題がなかった」などと断言する、何の根拠もない無責任な責任者の発言を論評もせずそのまま垂れ流してしまいます。これも問題があると思います。2014年3月30日のカメルーン人の死亡については明日詳細を書く予定ですが、3月29日に亡くなったイラン人男性(当時33才)は、前日28日の夜7時半頃夕食をのどにつかえさせ、救急車で運ばれたが、3月29日15時26分に搬送先病院で死亡したということです。この方は牛久センターに収容される前に横浜入管に収容されており、その時私は面会をしていたので、ショックでした。
 二人の死亡事件の後、関東仮放免者の会とBOND(外国人労働者・難民と共に歩む会)の二団体が牛久センターに申し入れを行いましたが(こちらを参照してください http://praj-praj.blogspot.com/2014/04/2.html )その際のセンター総務課の態度もひどいものでした。亡くなったイラン人男性Sさんが喉に食べ物を詰まらせたことについての今後の原因追究を求めたところ、総務係長は「それ(食べ物をのどに詰まらせて窒息死すること)はあることでしょう」と何度も繰り返し発言したということです。連日二人が死亡していること、33歳の男性が食事に喉を詰まらせて死亡すること、という異常な事件が起こったまさにそのさなか、「あることでしょう」などと責任者が平然と発言する。これは、入管という組織の実態、またその責任者たちの意識がどのようなものであるのかを、如実にあらわしていると思います。
 2014年には、このあと11月にも、品川入管でスリランカ人の死亡事件が起こっています。一年に3人もの死亡事件を起こすことも異常ですが、入管ではさらにその後5人もの死亡事が起こっています。こんな組織が普通にそのまま今にいたるまで存続しているということ自体が、異常なことです。
 もう一つ気になるのは、入管における死亡事件が3月に偏っていることです。3月だけで6人もの方が亡くなっています。
3月6日(2021年)名古屋入管でウィシュマさん死亡
3月21日(2009年)東京入国管理局(品川)で中国人男性自殺
3月22日(2010年)成田空港で強制送還中ガーナ人男性死亡
3月25日(2017年)東日本入国管理センター(牛久)でベトナム人男性死亡
3月29日(2014年)東日本入国管理センター(牛久)でイラン人男性死亡
3月30日(2014年)東日本入国管理センター(牛久)でカメルーン人男性死亡

問題はなかった

 5年前の今日2017年3月25日未明、東日本入国管理センターに収容されていたベトナム人男性(47)の死亡が確認されました。死因はくも膜下出血でした。18日から激しい痛みを訴え続けていましたが、外部病院には受診させず一週間放置されました。「痛い、痛い」と訴える男性に職員は「静かにしろ」と言い放っていました。ウィシュマさんが死亡する4年前のことです。
 この間なされた医療措置は21日の所内でのX線撮影と痛み止め薬処方のみ。当時同ブロックの被収容者によると、18日から痛みを訴えていた男性は、24日も11時から痛い痛いと泣き叫んでいましたが、20時ごろ静かになったそうです。職員は22時に男性の反応がないことを確認していましたが、それでも救急車を呼ばず、一旦居室を立ち去っています。やっと病院に搬送されたのは数時間後の25日未明。男性が運ばれていく姿を目撃した同ブロックの被収容者は、男性の体が硬直しているように見えたそうです。入管の発表によると2時20分ごろ病院で死亡が確認されています。以上のことから、本当の死亡時刻は24日20時だった可能性があります。
 牛久センターの北村晃彦所長(当時)は、死亡直後に「現時点で処遇に問題はなかった」とコメントしています。6月に「東洋経済」誌が当時の対応について改めて入管に聞いたところ「特段問題はなかった」と回答しています。自分の施設で人が死亡していつもこのような対応をするのが入管なのです!同年12月に発表の法務省内部調査によると、18日から頭痛、意識もうろう、失禁などの症状を職員が確認していました。21日に診察した所内非常勤医は「筋緊張性頭痛」診断。頭痛薬の処方でした。報告書では、外部の脳神経外科医が「頭痛の訴えを受けた段階で専門的な検査をすれば、くも膜下出血を確認できた」と指摘しています。だが薬の服用で一時回復したことなどから、報告書は「重篤な病気と認識するのは難しかった」と結論しています。報告書で入管は「事実を重く受け止め、医療体制を整えていきたい」としていました。……そして4年後、ウィシュマさんが死亡しました。いままた入管は「医療体制を整えていきたい」というようなことを言っていますね。白々しいにもほどがあります。問題は「医療体制の不備」などではないのです。お前たちを治療などしないぞ、死んでもしかたないんだぞ、ということを被収容者に見せつけ、心を挫いて帰国させる「体制」を意図的に作っているのです。まさに国連に何度も指摘されているように「拷問」以外の何ものでもありません。こうした送還一本やりの入管の方針そのもの、入管そのものが問題なのです。
参照
入管の「内部調査」がどのようなものかはこちらの動画をご覧ください https://youtu.be/MATCwQUOV98

2010年3月22日

 12年前の今日2010年3月22日、日本人の妻と日本で暮らしていたガーナ人スラジュさんは強制送還の途中空港で入管職員の制圧を受け死亡しました(享年45歳)。入管職員は手錠・足錠をつけタオルで猿ぐつわをし、6人がかりで抱え上げ飛行機に乗せ無抵抗の彼を力の限り押さえつけ、前かがみにさせ横から首を倒しました。
 その後提起された国賠訴訟の弁護団に参加した谷口太規弁護士のコラムから抜粋します。

www.call4.jp

 

 国は、スラジュさんの死は、スラジュさんの心臓にあった極めて特殊な腫瘍による突然死だと主張した。
 そんなバカな、である。手足を拘束し、何人もの男性職員が力の限り制圧しただけでなく、首を強く押さえつける中で息絶えているというのに、まさにその瞬間に、それまで問題なかった心臓の奇病が現実化して亡くなった、という主張である。そんな常識に反する奇想天外のストーリーを一体誰が信じるだろうか、私たちは国が提出した書面を見てそう思った。
(…)3年にわたる審理、10人に及ぶ証人尋問を経て、一審は国の責任を認める判決を出した。苦労はしたが、正義はかなえられた、かに見えた。
 しかし、控訴審になって、国はさらに多くの医師を連れてきた。まるで、日本のほとんどの法医学者が国に協力しているかのようであった。国は多くの予算をかけて研究者を雇い、再現実験までをやり、実験室の結果を持って問題ない制圧であったと主張した。一審で出せるだけの全てを出していた私たちはそれ以上の主張をすることが難しかった。
 控訴審は制圧行為をした入管職員に直接話を聞くことなく、一審判決を覆した。基本法律論のみを扱う最高裁で事実認定を争うのはほぼ不可能に近い。飛行機の座席で崩れ落ちたスラジュさんは、心臓の奇病による死と片付けられ、入管が責任を問われることはなかった。

#0322NeverForgetSuraj

ガイアーの発動は近い

こちらのツイートを見かけて、横山光輝『マーズ』を読みたくなった。

 『マーズ』は、『週刊少年チャンピオン』で1976年に連載されたとのこと。私は当時11歳。1970年代の『チャンピオン』連載マンガといえば、『ドカベン』『ブラック・ジャック』『魔太郎がくる!!』『キューティーハニー』『恐怖新聞』『がきデカ』『らんぽう』『750ライダー』『エコエコアザラク』『マカロニほうれん荘』などがあるようで、そのへんはよく覚えているのだが、『マーズ』に関しては記憶がない。また、私は、当時読んでいなかった70年代の名作漫画の多くをだいぶあとになってから再発見して読んではいるのだが、『マーズ』は未読だった。というわけで、秋田文庫版(3巻、2000年〜2001年)を購入し、読んでみたが、期待に違わず大変面白かった。
 ここはあの漫画・アニメの元ネタなのではないか、と感じたところが多々あり*1、こじつけもあるが、少し書いてみる。
 まず、これはネット上でも話題になっているが、6つの神体が次々と襲来する、というのは明らかに『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年〜1996年放送)の使徒襲来の元ネタであろう。名前とか、デザインとかも似ている。これ(第5神体ウラエウス)とか。

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横山光輝『マーズ』3(秋田文庫、2000年)330頁

 その他は私のこじつけかもしれないが、たとえば、とてつもない破壊力を持った少年が目覚めて、争奪戦のようなものが起こる、という設定は、『マーズ』の6年後の1982年に『ヤングマガジン』で連載がはじまった大友克洋の『AKIRA』に少し似ているかもしれない。『AKIRA』に関しては、金田、鉄雄、28号、などが横山光輝の『鉄人28号』から取られているというのは有名な話であるし。
 また、『AKIRA』と同じく1982年に『アニメージュ』で連載がはじまった宮崎駿の『風の谷のナウシカ』、だいぶ後の単行本で最終巻の7巻だが、世界を破壊する巨大な人型の兵器でありかつ「裁定者」が、世界を救うとも破壊するとも言える傷ついた主人公を手に抱えて飛行するシーンがある。

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宮崎駿風の谷のナウシカ』7(徳間書房、1994年)、39頁

 とこう書くと、『マーズ』の以下のシーンと似ているとも言えるのではないだろうか。

 

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横山光輝『マーズ』2(秋田文庫、2000年)241頁

 さて、実はここからが本題なのだが、『マーズ』の単行本にはいくつかのバージョンがある。横山光輝公式サイトによると、最初に発行された少年チャンピオンコミックス版(5巻、1976年〜1977年)、の他に、秋田書店版(3巻、1993年)、私が買った秋田文庫版(3巻、2000年〜2001年)、いわゆるコンビニ漫画のAkita top comics wide版(前後編、2005年)、復刊ドットコム出版の「オリジナル版」(3巻、2018年)、があるようだ。
 で、最初に紹介したツイートで引用されているバージョンが、どのバージョンかはわからないのだが、秋田文庫版を読んでいて、該当ページが出てきたとき、重要な部分が違っているので、驚き、呆れた*2。秋田文庫版では、こうなっているのだ。

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横山光輝『マーズ』1(秋田文庫、2000年)148頁

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横山光輝『マーズ』1(秋田文庫、2000年)149頁

 つまり、「ドイツ軍のユダヤ人虐殺事件」「日本人の中国人虐殺事件」「ベトナム戦争ソンミ村虐殺事件」が、それぞれ「ある時は」「またある時は」「そしてまた……」になっている。おそらく、1976年のオリジナル版での表記が、2000年(あるいは1993年)のバージョンで改変されたのであろう。しかし、この改変は、オリジナル版の該当箇所が訴えている重要なメッセージを裏切る、最低の改悪だと言えよう*3。この箇所の少しあとで、マーズが身を寄せている医師の家で、マーズと春美(医師の娘)が次のように会話する場面がある。

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横山光輝『マーズ』1(秋田文庫、2000年)198頁

 春美は、戦争があったのは昔の話で、今は「戦争というものがどれほどおろかな行為かみんな知っている」のであり、戦争の残忍な行為は「非難をこめて書き記されている」と言っている。しかし、漫画のストーリーは、春美の言葉とは異なってやはり人間は今でもおろかな存在であった、という結末になっている。そうしたストーリーになっていること自体が、この漫画が、戦争のおろかさを「今」この漫画を読んでいる読者に知らせ、警鐘を鳴らすことを目的にしていることを意味する。ところが、他ならぬその漫画の中の、戦争の残忍な行為についてまさに「非難をこめて書き記している」箇所から、歴史性を消去し一般的抽象的表現にしてぼかしてしまう、とは、一体どういうことだろうか。だが一方で、2000年前後に出版されたバージョンでこのような改変がなされてしまう、という時代の雰囲気はよく分かるのである。たとえば、小林よしのりの『戦争論』の単行本は、1998年〜2003年に出版されている。言うまでもなくこのような雰囲気は加速して「今」も続いている。つい先日、「従軍慰安婦」や「強制連行」という表現が適切ではない、とする閣議決定(!)を受けて、実際に教科書会社が教科書の表現を「訂正」してしまった、というニュースがあったばかりである。

「従軍慰安婦」の「従軍」削除/政府の圧力のもと変更/中学・高校の歴史教科書記述

 残念ながら、ガイアーの「発動」*4もますます近づいていると言わざるを得ないだろう。

 

*1:逆に、数年前発表されている永井豪の『デビルマン』(1972年〜1973年)と似ている部分もある。

*2:上のツイートのリプライでそのことを指摘している人もいるので、知られていることのようだ。

*3:横山光輝(1934年〜2004年)は2000年には存命であり、この改変を了承していた、あるいは自ら改変した、という可能性もあるが、それもまた残念なことである。また、確認はしていないが、2018年出版の復刊ドットコム『オリジナル版』では、おそらくこの箇所ももとの表記に戻っているのではないだろうか。

*4:と書いて思いついたが、『マーズ』は、『伝説巨神イデオン』(1980年〜1981年放送)と、「イデの発動」の元ネタの一つかもしれない。ガイアーについては一応ネタバレせずにおきます。

ミーティの危惧

※ネタバレあります。
 『メイドインアビス』というマンガが面白い、と教えてもらった。Amazon Prime Videoでアニメが観られたので観てみた。観たのは何ヶ月も前なのだが、少し気になることがあるので書いてみたい。
 ナウシカの影響が強かったが、映像もきれいで、それなりに面白くはあった。しかし、全体としては、当該ビデオについているあるamazonレビューの「続きは気になりますが全体的に絶望がすぎるのとこれ以上のグロを見たくないので二期があったとしても見ません。評価高いから見たけど見なければよかった。」という感想と全く同じ感想を持った*1。また、同じレビュアーが指摘する性的描写の問題もあると思った*2。というわけで、以下は、アニメ一期を観ただけでの感想であることをお断りしておく。

 さて、私がもう一つ気になったのは、「グロ」というより、よくある「ダーク」なストーリーとして、またまた、安易な「道徳的ジレンマ」が使われていたことだ。(ここからネタバレ→)ある日、主人公レグは、「アビス」と呼ばれる異世界(『風の谷のナウシカ』の腐海みたいな場所)にあるナナチのすみかで「ミーティ」に出会う。ナナチ、とは、うさぎのような耳をもち、しっぽが生えた動物のような姿をしている登場人物である。ナナチと一緒に暮らしているミーティは、怪物のような異形の姿をしているのだが、おとなしく、ナナチはミーティを大切に扱っている。実はナナチとミーティはふたりとももともとは人間で、親友だった。だが、ボンドルドという悪いやつにだまされ、実験台にされ、「成れ果て」という怪物にされてしまったのだという。ただ、ナナチは異形の姿になったあとも例外的に人格を保ったままだったが、ミーティは「人格も知性も消え失せた」「文字通り人だったものの成れ果て」の状態(アニメ、エピソード11)になってしまったのだ、という。ナナチは、「成れ果て」となったミーティを何度も殺そうとする(レグはそれが「ミーティの尊厳を取り戻すため」の行為だったのではないかと推測する(同、エピソード13))。しかし実験の結果不死となってしまったミーティを殺すことはできなかった。レグと出会ったナナチは、レグの腕にそなわっている強力な武器(火葬砲)の威力を見て、レグの武器を使えばミーティを死なせることができるのではないかと考え、レグに、ミーティの殺害を依頼する。レグは最初ためらうが、結局はナナチの頼みを受け入れて、ミーティを殺害する。この作品では「グロ」いシーンが多数出てくるのだが、このミーティの殺害シーンは、「グロ」いものではなく、むしろ、光に包まれた、きれいな描き方をされていた。ミーティが死んだ後、ナナチは号泣する。
 最近の(というかかなり前からの傾向だろうが)マンガやアニメでは、こうしたいわゆる道徳的ジレンマをストーリーに取り入れて、「深い」テーマを扱っているかのように見せかけるものが多いように感じる。このブログでも、『プラネテス』とか『刻刻』とかを題材に、そうしたストーリーにたいする違和感を何度か書いている。『メイドインアビス』のこのストーリーにもやはり同じような違和感を覚えた。ナナチは、ミーティーの殺害が、ミーティを「苦しみから解放する」行為である、と考えて、それをレグに依頼する。親友だからこその、苦渋の決断であり、究極の優しさである、みたいな感じだろうか。
 まず、ボンドルドの行為が許されないものであることは大前提である。それを踏まえた上で、では、少なくとも現在、ミーティは「苦しんで」いるのだろうか。ミーティは、人間性を失う直前に、ナナチに「殺して」と頼んでいたことになっている。そして、その後「成れ果て」となった後も、ミーティはボンドルドに実験で苦痛を与えられ続けていた。しかし、見かねたナナチがミーティを連れてボンドルドのもとを逃げ出してからは、ナナチの保護のもと、安楽な生活を送っているように作品中では描かれている。では、この作品の中で仄めかされているミーティの「苦しみ」とはなんなのだろうか。現在ミーティは肉体的苦痛を感じているような描写はないわけで、結局それは、人々に忌避される「醜い」異形の姿であること、から来る、いわば「精神的な」苦痛でしかありえないだろう。だがその苦痛を感じているのはいったい誰なのだろうか。異形の姿になる直前のミーティはその苦痛を予感していただろう。だが今は、ミーティは「人間性」を失っているとされ、乳児や動物のような「無邪気」な存在として描かれ、精神的な苦痛を感じているようには見えない(ナナチは、ミーティがときおり鳴き声を出すのは「ただの反応」でしかなく、どんな手段でも意思の疎通はできなかった、と断言する*3)。ならば、現在苦しんでいるのは誰か。それは、ナナチである、ということになってしまう。もちろん、実際ナナチは苦しんでいるだろう。だが、「苦しみから解放する」というよくある言葉の中で、その「苦しみ」が誰のどのような苦痛なのかがあいまいになってしまうことは、実はかなり危険なことである。
 ところで、ミーティの死後、もうひとりの主人公であるリコが、自分が見た夢についてレグとナナチに話すシーンがある(エピソード13)。リコは、レグと一緒にナナチのすみかを訪れたとき、大怪我をおって意識を失っており、そのまま眠り続け、回復し目覚めたのはミーティの死後である。眠っているリコはミーティになつかれ*4、いつもそばにミーティがいた。リコは、夢の中で、暗闇の中で怖くてずっと泣いている子の泣き声を聞いていたのだという。リコは夢の中でその子をずっとなぐさめていたのだが、煙のような匂いがして、泣き声がやみ、その子は「振り向かずに行っちゃった」。そのときリコは、その子の横顔と「憧れに溢れた眼」を一瞬見た、というのだ。つまり、リコの夢の中で泣いていた子というのは、ミーティの「魂」だった。そしてこの夢は、ミーティがずっと苦しんでいたこと、また死んだ=殺されたときに苦しみから解放されたことを示している……と、ナナチとレグ、そして読者(視聴者)は都合よくも勝手にそう思って安堵する。そういうふうに作られたエピソードであることは明らかだ。だが結局、このエピソードは、「苦しんでいたミーティ」と「喜んで死んでいくミーティ」とは、実は生き残っったものの都合の良い夢想の中にしか存在しない*5、ということを(作者の意図しないかたちで)示しているのである。
 こうした描写は、「人々に忌避される異形の姿となってしまったかわいそうな存在は、殺してあげることが本人の幸せでもある」というような(一般に「安楽死」と称される)都合のいい理屈を、まるで深遠な道徳であるかのように正当化し粉飾してしまう。またそのことで、「私がもしあんなふうになったなら、私だったら死にたくなる」という、まさに異形の存在を忌避している私たち自身の差別意識を体よく隠蔽する作用をもってしまうのだ。
 「怪物」というテーマは、永井豪諸星大二郎、藤子F不二雄、手塚治虫楳図かずお宮崎駿、といった人々の作品にしばしば登場する。このブログでもいくつかそれについて考察する文章を載せたことがある。そして、それらの作品では、「怪物」を忌み嫌う私たち自身のまなざし、を問題にする観点が多かれ少なかれ含まれているように思う。しかし、『メイドインアビス』では、(少なくともミーティのエピソードでは)残念ながらそうした観点が希薄であるように感じた。

あべ・やすし「反原発を 分断する優生思想。」
堤愛子「ミュータントの危惧」
堤愛子「『ありのままの生命』を否定する原発に反対」
永野潤「カオスの解放──『風の谷のナウシカ』の構造──」
常野雄次郎「登校拒否解放の(不)可能性 後編」
永野潤「映画アンケート「モンスターVSエイリアン」」
永野潤「吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?──「怪物」のユートピアと「人間」のナルシシズム」
猿虎日記「風と雑種性」
猿虎日記「プラネテスのポリティカ」1 

猿虎日記「プラネテスのポリティカ」 2

猿虎日記「プラネテスのポリティカ」 3
猿虎日記「浅間山荘と児童虐待──漫画『刻刻』について──」
猿虎日記「『鋼の錬金術師』について」

*1:

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1G31XZ2KYGE6L?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

*2:幼い二人の性的な描写はこの絵柄でやられると色々思うことがあります。地上波で流すならもう少しオブラートに包んでください。

*3:だが、その根拠が示されることはない。

*4:ミーティは「ただ反応しているだけ」といいながら「なついている」と言ったり、ナナチの説明も矛盾だらけである。

*5:また、ミーティを殺すことで守られるミーティの「尊厳」なるものも、実はレグの推測の中にしか存在しない。

ニッポン・イン・ザ・シェル

(2019年に書きかけて放置していた文を少し修正して投稿)

 風邪を引いて寝ているときに、amazonプライム・ビデオで無料視聴可能だったため、2016年公開の『シン・ゴジラ』と、2017年公開のハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』をタブレットで観た(※以下思い切りネタバレあり)。『シン・ゴジラ』については、公開当時ネットでいくつかの批判記事を読んで、もう観なくてもいいか、と思っていたのだが、観てみたところ、ほぼ予想通りの内容だった。ということであまり語ることはない。ただこれに関連して、そのうち、1966年のサルトル来日のときの清水幾多郎によるサルトル批判と、それに対する市井三郎による反批判のことを紹介しようと思っている。
 ハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』も、最初はそれほどいいとは思わなかった。『ゴースト・イン・ザ・シェル』の原作は、士郎正宗のマンガ『攻殻機動隊』であるが、よく知られているようにこのマンガは押井守監督で1995年に劇場アニメ版(『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』)が作られている。私は押井版のアニメにはかつてかなり魅了されてしまって、何度も観返した。しかし、原作マンガと、テレビ版のアニメはあまり惹かれなかった。もう一つの劇場版アニメ『攻殻機動隊 ARISE』は未見。ハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、押井版のアニメのシーンを20年後の高度なCG技術を用いて実写化したシーンがいくつもあった。大体忠実だったが、映像としての魅力は、20年前の押井版が勝っているな、と思ってしまった。
 さて、ハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』のストーリーだが、最初から思い切りネタバレであるが、この作品の設定によると、(原作や旧アニメ版とは違い)主人公は、〈「テロリスト」に襲撃された難民の生き残りとされていたが、実は捕らえられて記憶を消され、生体実験の実験台にされていた反体制活動家であった人物〉、なのである。もちろん、この設定は、「悪の巨大組織に立ち向かう正義の個人あるいは小組織」というよくあるヒーローのあり方を踏襲したある意味凡庸なものともいえるが、作品の設定として、大企業が悪、反体制グループは正義の側に一応位置づけられているだけで、変な言い方だが安心してみていられる*1。一方、『シン・ゴジラ』はというと……この映画の主人公は、政府であり、軍隊であり、政府に協力する企業、である。そして、国会の周りに集まるデモ隊は、不眠不休で頑張る政治家や役人を邪魔する単なるうるさい迷惑な連中としか描かれていない。ただ、「巨大な悪の組織に立ち向かう正義の個人あるいは小組織」という図式を当てはめると、『シン・ゴジラ』で「巨大な悪の組織」は、一応ある。それは、アメリカとか国連である。それに立ち向かう正義の小(?!)組織が、「ニッポン」だ、と。まあこれはかつて書いたこの記事*2に関連することだ。ところで、よくあるヒーローものには、「悪の巨大組織」でも「正義の個人や小組織」でもない登場人物ももちろん出てくる。主人公の邪魔をするチンピラなどである。これはまあ、主人公の強さと、正しさを強調するための引き立て役である。『ゴースト・イン・ザ・シェル』にも、酒場で主人公を襲って瞬殺されるチンピラたちが出てくる。で、『シン・ゴジラ』の場合、つまりは国会前のデモ隊が、このチンピラ(あるいはそれ以下)の扱いなのであった(この点はかつて書いた記事*3での反体制派の扱いと関連する)。このように、『シン・ゴジラ』では、反体制派(的なもの)は徹底的な雑魚的な扱いで嘲笑されている(というかそもそも一瞬しか出てこない)が、「体制内の異端児」的なもの(つまり「巨災対」)は、むしろ肯定的にかっこよく描かれている。これもよくある話。『攻殻』の公安9課だって最初からまさにそういうものだ。
 ところで、ハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』に対しては、原作や旧アニメ版では「草薙素子」という「日本人」という設定の主人公を、スカーレット・ヨハンソンというヨーロッパ系の女性が演じた、ということに関して「ホワイト・ウォッシュ(whitewashing)」ではないか、という批判が(アメリカなどで)起こった。ホワイト・ウォッシュは、最近大坂なおみを白い肌でアニメ化したCMについて話題になった*4。こうした批判が起こった一方で、『ゴースト・イン・ザ・シェル』では、一応、ヨーロッパ系、アフリカ系、アジア系と思われる登場人物が出てくる。それに対して、『シン・ゴジラ』はというと、登場人物は全員「日本人」か「アメリカ人」(一瞬フランス人)。まあ予算の問題もあったりするのだろうか、なんだか世界が閉じている。
 次に、ハリウッド実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』でのセリフの問題。ハリウッド実写版では、日本人俳優も二人出てくる。ビートたけし桃井かおりである。ところが、桃井かおりは英語で演じているのに対して、たけしだけは日本語で演じている。アメリカ公開時はたけしのセリフには英語の字幕が出ていたようだ(字幕の問題は後述)。なぜたけしだけ日本語なのか、という事情について、ネットで調べたところ、要するにたけしが、英語のセリフはいやだ、とだだをこねて、監督が制作側を必死に説得したことで、たけしだけ日本語になったのだという*5。たけしは多忙を理由に撮影に2日しか参加しなかったそうだが、彼はしかもその短い日本語のセリフすら覚える気がなく、スカーレット・ヨハンソンがたけしのための日本語カンペを持って見せていたのだという*6。たけしは、「自分が監督ではない場合監督の指示に従う」などと言っているようだが、口先だけじゃないの、と思ってしまう。しかも、たけしの日本語の演技がどうだったかというと、棒読みで、まあひどいものだった。『シン・ゴジラ』の「ニホン」あるいは「ニホン人」の自己像は、大国に翻弄されながらもまじめにコツコツ仕事を頑張る素晴らしい国民、である。私はこれにリアリティーをまったく感じない。一方、まさに「夜郎自大」としか言えないたけしの態度こそが、勘違いした大物ぶり、マジメにコツコツという自画像に反して実際は手抜きばかり、という、ザ・ニホンだな、という気がする。まあ、たけしの「手抜き」は、ニホンでは、なぜか「さすがに大物」ともてはやされるわけだが*7
 さて、『ゴースト・イン・ザ・シェル』の制作に関わった日本人スタッフの対談*8によると、『ブレードランナー』風の、無国籍の街に点滅するCGの看板の文字の中に、最初「高級ホテル」という物があったのだそうだ。予告編を見て、看板で「高級ホテル」はおかしい、という声があがり、日本人スタッフが最小限の変更で済む代替案を聞かれ、結局完成版では「高級大飯店」になったのだそうだ。クレームをつけたおそらく日本人は、オリエンタリズムとかそういうことではなく、ただリアリティがない、という苦情だったのではないだろうか。たしかに現実のニホンで「高級ホテル」という看板はおかしいといえばおかしいだろう。しかし、そもそも架空の未来の街なんだから別にいいんじゃないの?というのが一つ。もう一つは、「高級ホテル」が現実のニホンの街に看板としてあったらおかしいとして、じゃあ「高級大飯店」は、現実の中国や台湾の街ではおかしくないのか?ということ。私にはわからないがやはりおかしいんじゃないの?おそらくニホンから「苦情」があったため日本人スタッフが代替案を聞かれたのかもしれない。しかし、この映画は、上海電影集団公司とフアフア・メディアという中国系の会社が制作に名を連ねているのだが(呆れたことに、このことを「残念」と言っているニホンのブログもある)「高級大飯店」が現実の中国語圏でおかしいのかどうかはたして中国人などに確認したのだろうか?(そもそも中国語圏の人はそんなこと気にしないのかもしれないけど)。なんというか、ニホン人、自分のことしか考えていないんだな、というのをやっぱり感じてしまう。
 最後に字幕の問題である。さきほど、アメリカ公開時はたけしのセリフだけに英語字幕がついていたらしい、と書いた。ところで、日本版での字幕はどうだったのか。逆に、たけしのセリフだけ、日本語字幕がついていなかったらしい。だから、聴覚障害者がこの映画を観たときに、たけしのセリフだけ何を言っているかわからないということになったのだという*9。これ、2006年公開の『バベル』ですでに問題になっている*10 10年まったく進歩がないのだな、と呆れる。これも自分のことしか考えないマジョリティの無頓着さ(ファノンが言うところの「ナルシシズム*11)の現れという意味で、さきほど述べた「高級ホテル」の件と共通しているように思う。ろう者と映画に関して言えば、ろう者が主役であるアニメ映画『聲の形』で字幕版の上映が一週間遅れた問題も記憶にあたらしい。
 この聴者のナルシシズムを皮肉ったろう者向けのビデオを昔観たことがある。そこでは、架空のニュース番組で大きな事故のニュースが流れるのだが、ニュースキャスターが(手話で)次のように言うのだ。「なお、被害者の中にろう者はいませんでした」。

*1:諸星大二郎「コルベス様」 - 猿虎日記

*2:「平和国家 日本」という妄想 - 猿虎日記

*3:浅間山荘と児童虐待──漫画『刻刻』について── - 猿虎日記

*4:しかし、これは全くのたらればでしかないが、仮に草薙素子を、ヨーロッパ人のスカーレット・ヨハンソンではなく、アジア系の、例えば中国や台湾の女性俳優が演じていたら、ニホンでは、「なんで草薙素子を中国人が演じるんだ!」という轟々たる批判が起こっていたような気がする

*5:「ゴースト・イン・ザ・シェル」ビートたけしだけが日本語をしゃべる謎の真相を監督が明かす

*6:スカーレット・ヨハンソン、草薙素子役で新境地!「今までにない特別な体験」と来日イベントで告白|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

*7:あるいは、実はこれは照れ隠しの「たけし節」で、本当は真面目にやっていた、という裏の裏話が伝えられたりすると、それはそれで「さすが」と言われるのだろう。

*8:Vol.03 『ゴースト・イン・ザ・シェル』の“失敗”を「内と外」から語る|現場目線のハリウッド | クーリエ・ジャポン

*9:『ゴースト・イン・ザ・シェル』ビートたけしの字幕欠落! - 松森果林UD劇場~聞こえない世界に移住して

*10:wikipedia『バベル』「聾者コミュニティ内外での反応」

*11:「吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?─「怪物」のユートピアと「人間」のナルシシズム」Web評論誌「コーラ」7号 <倫理の現在形>第7回